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駆逐艦五月雨、連合艦隊最後の出撃 [駆逐艦五月雨]

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 修理のために佐世保に向かった五月雨は、1944年
7月5日まで佐世保で修理を行い、7月6日に午前6時に、
呉に入港しています。連合艦隊が、前線基地のように集結し、
臨戦準備に忙殺されていました。

 陸兵や物資を乗せた大発が、港内を頻繁に往来し、
1万t級以上の各艦に、搭載していました。須藤氏は、
戦艦に陸軍部隊を載せてどこへ運ぼうというのかと
疑問を持っていました。

 敵を見ながら退避した日本海軍と、前線になろうとして
いる内地を思い、今後どのような作戦を展開するのかと
考えていました。

 7月8日に、一戦隊(戦艦大和、武蔵、長門)、四戦隊
(重巡洋艦愛宕、高雄、鳥海、摩耶)、七戦隊(重巡洋艦
鈴谷、熊野、利根、筑摩)、第二水雷戦隊と伴に、呉を
出港し、中城湾を経由して、リンガ泊地に向かいました。

 五月雨は、7月16日に、リンガ泊地へ到着しました。
停泊している艦を甲乙に分けて戦闘を訓練をしており、
五月雨も参加しています。

 五月雨が、リンガ泊地で訓練をしている間の、7月20日に、
大宮島に一個師の兵力を揚陸させていました。7月9日の
サイパン島玉砕の報は伝わっており、東条内閣が総辞職
しているなかで、さらなる揚陸に対して、国民はどう思う
だろうかと須藤氏は評しています。

(追記)
 重巡洋艦筑摩は、利根型二番艦で、艦これに登録されて
います。利根型は、最上型の経験を取り入れて建造して
いますが、ロンドン条約で制限がかかっていた最上と
違い、主砲を20cmにしています。

 筑摩は、20cm主砲をすべて前方に集中させ、後部は、
水上偵察機5機を積んでいました。最後に建造された
重巡洋艦ということもあり、復元性、居住性なども
良好で、理想的な巡洋艦といわれていました。

 レイテ沖海戦の一つのサマール沖海戦で、大破後自沈
しています。


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