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重巡洋艦鳥海 旗艦を大和にする [重巡洋艦鳥海]

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 栗田長官の、愛宕から岸波への移乗過程で、
司令部に空白が生じ、指揮系統の乱れがあり
ました。このことが、栗田長官に、心理的な
ダメージを与えました。

 立て続けに、愛宕と摩耶が撃沈され、高雄が
脱落となったことも戦力の低下になりました。

 しかも、高雄に駆逐艦を随伴させる必要性も
生じたため、対潜水艦警戒網が、手薄になる
という問題も生じました。

 栗田長官は、岸波の艦内で、第四艦隊で唯一
残った鳥海を第五戦隊(重巡洋艦妙高、羽黒)に
編入し、艦隊旗艦を大和とすることを決めました。

 とはいえ、対潜水艦警戒中に、速度を落として
司令部に移動することは、危険でした。しかも、
岸波の通信能力で、艦隊指揮をとることは、適当
ではありませんでした。

 結局、宇垣司令官が代理で指揮をとり続ける
ことになりました。結局、栗田長官や愛宕の乗員が、
大和に移乗できたのは、薄暮れになる午後3時40分
でした。

 第四戦隊は、戦場に到着する以前の段階で、
4隻のうち3隻が脱落し、戦わず海の藻屑と化
しました。

 重巡洋艦は、開戦以来もっとも撃沈数が少ない
艦種でした。レイテ沖海戦の時点で、撃沈して
いたのは、ミッドウェー海戦で沈んだ三隈と
第六戦隊の加古、古鷹、衣笠の4隻のみでした。

 諏訪氏は、このこと自体奇跡としています。しかし、
レイテ沖海戦では、最も不運な艦種は、重巡洋艦だ
ともいえるほど、ツキがなかったといえます。

(追記)
 高雄は、脱落後シンガポールのセレター軍港に
回航され、終戦まで生き残りました。

 しかし、1945年7月30日のイギリス海軍が、
豆潜水艇で、高雄に侵入し、時限式爆弾を
仕掛けたため、大孔があき、火薬庫が浸水し、
高角砲も旋回不能となっていました。

 このことを知らなかったイギリス海軍は、終戦から
一年以上も経った後、軍港から引き出して爆破して
います。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)


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