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木村昌福中将 製塩事業 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

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 木村中将は、終戦を山口県防府市で迎えて
います。ここでは、県議会も務めた地元の
名士の尾中家の離れを住まいにして
いました。

 子供達は、鎌倉から学校に通っていましたが、
木村夫妻は、防府に残っていました。

 部下や生徒達の窮状に対し、木村中将は、
なんとかできないかと考えていました。ここで、
木村中将は、かつて校長を務めた通信学校の
使われていなかった土地に目を付けました。

 通信学校を建設するとき、学校を拡張する
予定で、塩田を買い上げていました。拡張
途中で終戦となったため、塩田の一部が
そのまま放置されていました。

 復員軍人の救済と、塩不足による製塩事業
奨励という二つの情勢があり、払下げしてもらえる
だろうと考えました。

 この案を発案したのは、通信学校で内務長を
務めた方でしたが、木村中将は、キスカ撤収と
同様、有能な部下の助言に従って、自ら責任を
もって判断しています。

 ただ、塩田があっても塩がすぐに生産できる
わけではないので、地元の組合長の元を訪れ、
協力を依頼しました。

 木村中将は、この地に赴任したのは、終戦の
一か月前であり、この地に縁もゆかりもない
というのが実情でした。

 本来なら、鎌倉の邸宅に戻り、自慢の庭で
過ごすこともできたといえます。

 しかし、木村中将は、部下を救いたいという
思いから、製塩事業を始めたいという思いが
強くなっていました。

(追記)
 防府は、江戸時代から長州藩の収入源として
製塩事業が行われていました。「防長三白」の
ひとつで、忠臣蔵で有名な赤穂と並ぶ塩の
生産地でした。

 潮の干満を利用した「入浜式」と呼ばれる
方法で、製塩をしており、海水を担いで海水を
運ぶ「揚浜式」より少ない労力で製塩が行われて
いました。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)


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