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木村昌福中将 敗戦の残務処理 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 木村少将は、生徒の前で嗚咽落涙しながら、
玉音放送の内容を伝達しました。途中何度も
中断し、涙ながらの伝達だったため、生徒達は
言葉を聞き取れませんでした。

 8月23日、「徴集を解除し、帰郷せしむることを
証明する」と書かれ、木村少将の印が押された
「徴集解除証明書」が手渡され、生徒は郷里に
帰って行きました。

 木村少将は、これからどうなるか分からず不安に
なっている生徒に、「歴史を勉強しなさい。」と告げ、
はなむけの言葉としました。

 木村少将は、敗戦後も防府に残って、残務処理を
していました。このころ、「ヒゲのショーフク」の誇りとも
いうべき、カイゼルヒゲを剃り落しています。

 あまりの人相の違いに、理由を聞かれた木村少将は、
「戦に負けてヒゲでもないだろ」と話していました。
木村少将は、生徒らが復員後も、廃校に向け、
作業を続けました。

 敗戦の残務処理をしていた10月1日に、
木村少将に、予想外の報が届きました。

 そこに記されていたのは、「中将に昇進」という
ことでした。キスカ島の撤収作戦などの功績を
評価した海軍省は、歴史に木村少将の名を
残そうと配慮した処置でした。

 木村中将の残した成果を考えれば当然と
言える処置であり、遅すぎるといえるものです。
兵学校卒業順位で生涯の階級を決めるという
不合理な昇進制度の弊害と言えます。

 木村中将が53歳の時に戦争が終わり、軍をやめた
後は、晴耕雨読の生活をしてもかまわなかったと
いえますが、木村中将はそうしませんでした。

 部下が、公職を追放され、職を失っていたのと、
復員した生徒も郷里に帰っても、職がないという
状況であり、部下思いの木村中将は、見捨てる
ことはできませんでした。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 海軍兵学校防府分校校長に就任 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 木俣氏の書籍は、終わりましたので、また、
将口氏の書籍に戻って、礼号作戦以降の
木村少将の活動を紹介していきます。

 木村少将は、潜水学校の校長を務めたのち、
1945年7月15日付けで、山口県の防府市に
ある海軍兵学校防府分校校長および監事長
兼防府通信学校校長に就任しました。

 赴任前から生徒の間で、「木村少将は
立派は髭の持ち主だ」といううわさが流れて
いました。そして、壇上に立った木村中将の
姿を見て、うわさ通りだと納得していました。

 木村中将は、挨拶で、「海軍少将木村昌福、
まさは日を二つ重ねた昌、とみは福神漬けの
福」というユーモラスな自己紹介に、生徒は
驚いていました。

 この時期、沖縄も陥落しており、後は本土決戦
しかないという息詰まるような状況下だったことも
あり、木村少将は、このような挨拶をしたと思われ
ます。

 1ヶ月後、玉音放送を、聞くことになります。
しかし、雑音が多く、何を言っているのか聞き
取れなかったとしています。

 木村少将は、「くわしいことは追って知らせる」と
言い、生徒を生徒館に引き揚げさせました。翌日、
木村少将は、全生徒を集めて、玉音放送の内容を
伝達しました。

(追記)
 将口氏の著書にも、礼号作戦について、木俣氏の
書籍にはなかった話がありますので、紹介します。

 当初、木村少将は、礼号作戦について批判的だった
ようです。「艦隊司令官は、ヒゲが3本たりないな」という
遠回しの批判をしており、これを聞いた参謀は、人を
批判しない木村少将の言葉としてずっと記憶していました。

 救助された清霜艦長の木村少将への言葉として、
「われわれが今日まで生き延びているのは感謝の
ほかなく、命の恩人」としています。

 司令官自ら救助に乗り出したという行動に対する
賞賛でした。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 礼号作戦の反省 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 礼号作戦の本来の戦略目標であるアメリカ軍の
ルソン島への上陸作戦が、延期されたかということ
ですが、これについては、全く影響しませんでした。

 ルソン島への上陸作戦は、当初の予定通り、
1945年1月9日に実施されています。

 アメリカ軍の物量からすれば、木村少将が率いた
8隻の艦隊の殴り込み程度では、いかんともなしえな
かったといえます。礼号作戦は、物理的は戦果はない
無駄な作戦だったということになります。

 一方で、木俣氏は、日本軍の精神的な面では
戦果があったとしています。レイテ沖海戦の敗北で、
厭戦ムードに包まれていました。特に、水上艦隊は、
武蔵の沈没が、精神的ダメージを大きくしたとしています。

 航空機に対する恐怖も日本海軍には広がっており、
航空圏内に飛び込むこと自体が自殺行為と考えられて
いました。

 このような中で、突撃を実施した木村少将の艦隊は、
海軍にカツを入れたとしています。大艦隊を要しながら、
途中で帰還した栗田艦隊と比較し、日本海軍に自信と
希望を与えたとしています。

 戦争は、兵士が行うものであり、兵士の士気は、
重要な要素だとしています。

 なお、木村少将は、カムラン湾に帰還して1週間後の
1945年1月4日、に第二水雷戦隊の職を辞して、内地
に帰還しています。

 連合艦隊司令部付となり、潜水学校校長を務めて
います。潜水艦は、専門の駆逐艦と同じ魚雷を
使用した奇襲攻撃を得意とする点で、一脈
通じるものがあると考えたようでした。

 連合艦隊司令部付となったのは、木村少将の同期で
親友の草鹿中将が、「木村少将のような、実際家の補佐
が必要だ」と人事局に申し出たことから実現したといわれ
ています。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)

木村昌福中将 礼号作戦の戦果 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 司令部の期待を受けながら実施された礼号作戦
ですが、戦果は意外に少なく終わりました。

 日本軍は、ルソン島への上陸作戦のために、
アメリカ軍はミンドロ島に上陸したと考えていた
からででした。

 このような誤解のもとで作戦計画が立てられた
ことが、戦果につながらなかった一番の理由でした。

 実は、木村少将が突入した2日後、輸送船団が
ミンドロ島に到着しており、この時であれば、相当な
戦果が期待できました。木村少将は、敵が少ない時に
攻撃をかけてしまいました。

 アメリカ軍の資料から、日本軍が与えた戦果を
みると、輸送船4隻に損害を与え、帰還するときに
海戦した魚雷艇を1隻破損させているということです。
航空機は、20数機撃墜しています。

 最も大きな戦果は、飛行場に対する砲撃で、2つの
飛行場は大きく破壊され、そこにいた航空機も、破損
している航空機が50機ほどが残っているだけでした。

 日本軍と海戦をするために、レイテ島から派遣されて
いた艦隊は、木村少将の艦隊がミンドロ島から離れた
12時間後に到着し、再度来るかもと警戒していましたが、
空振りとなっています。

 この艦隊を指揮していたチャンドラー少将は、この
9日後に日本軍機の特攻を受け、戦死しています。

 これらが、日本軍140名の戦死・行方不明者を
出した作戦の成果でした。

(追記)
 アメリカ軍の極東空軍司令官ケニー大将は、
マッカーサー元帥に対して、木村少将の艦隊に
対応した全パイロットに、勲章を授与してくれる
よう要請しました。

 木俣氏は、「木村少将の艦隊に不意を打たれた
ため、上級指揮官としてなすべき手段を持たな
かったことに対する代償」としています。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)

木村昌福中将 護衛駆逐艦カムラン湾に到着 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 護衛駆逐艦榧、樫、杉を原隊に復帰する
という命令は、木村少将にも、伝えられて
いました。

 とはいえ、木村少将としては、カムラン湾で
待つという方針を変えるつもりはありません
でした。

 護衛駆逐艦は、カムラン湾を目指し航行
している途中、見張り員が、漂流者を発見
しています。

 暫定旗艦の駆逐艦榧は、カッターをおろして、
救助することを決めました。

 この漂流者は、22時間前に撃沈された
野崎の乗員でした。駆逐艦榧らは、低速
だったため、漂流者に気付いたということ
でした(同じ航路を、木村少将も航海して
いますが、発見していません)。

 1時間40分の救助活動を行い、カムラン湾に
到着したのは、12月29日午前11時30分でした。
救助活動分を差し引くと、予定通り到着したと
いえます。

 3隻が入港すると、第二水雷戦隊司令部は、
護衛駆逐艦が無事到着したことを連絡し、早速、
足柄と大淀に命じて、給油をしています。

 カムラン湾は、多数の艦がひしめき合い、
にわかに活気づきました。礼号作戦は、
清霜以外、全艦無事に帰還しました。

(追記)
 野崎(のさき)は、日本海軍の給糧艦です。
1939年に建造された小型の冷凍運搬船であり、
根拠地に、魚や肉類を運ぶ軍艦でした。

 高角砲や機銃は持っていたので、駆逐艦や、
駆潜艇の代わりに護衛艦として使用されました。

 撃沈された時も、輸送船の護衛として航海
していました。潜水艦の警戒のため、沖を走って
いるときに、レイテ沖海戦で摩耶を撃沈した
潜水艦デースの魚雷を受けて撃沈しました。

 護衛していた輸送船は、あわてて逃げて
行ったため、漂流者は取り残されていました。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)

木村昌福中将 護衛駆逐艦榧、樫、杉 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 木村少将は、作戦の間ほとんど寝ていません
でした。鼻がつかえるような霞の小さな腰掛けで
まどろんだくらいでした。

 木村少将は、設備の整った大淀に移ることに
しました。霞の乗員は、内火艇で離れていく
司令官を敬礼で見送りました。

 一方、第二遊撃部隊の司令部は、旗艦日向で
気をもんでいました。カムラン湾は、空襲に対して
脆弱であり、いつ空襲を受けるか分かりません
でした。

 そこで、参謀の名で、木村少将に、カムラン湾を
離れるのを認めると電文を送っています。受け取った
木村少将は、握りつぶしています。

 木村少将は、おいてきた護衛駆逐艦3隻のことを
気にしており、この3隻が帰ってくるまでは、カムラン湾
から、離れる気はありませんでした。

 このころ、護衛駆逐艦榧、樫、杉の3隻は、
経済速度で、本体がたどったコースを航海して
いました。燃料が少ないので、速度を上げることは
できず、本体から遅れて走っていました。

 木村少将がカムラン湾に到着する前に、
南西方面艦隊から、第二遊撃部隊旗艦の
日向に、「護衛駆逐艦榧、樫、杉の3隻は、
原隊に復帰する」という命令をしています。

 本来、この3隻は、木村少将はおろか
第二遊撃部隊に所属している艦でも
ありませんでした。

 南西方面艦隊は、輸送任務が多く、
護衛駆逐艦は一隻でも欲しいという状況
なので、作戦が終了したのであれば
返せと言うのは当然と言えます。

(追記)
 上記のような電文は、本来は、司令官の名で、
移動するように命じるものです。それが、参謀の
名で、移動することを認めるという忠告のような
文面になっているのは、木村少将に一任する
という態度だからです。

 木村少将も、文面からこのことは察していた
ので、服従する必要はないと判断し、自分の
指揮下で戦った艦を待つという態度をとったと
いえます。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)

木村昌福中将 カムラン湾に入港 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 潜水艦による警戒をしていると、航空機が
現れました。1時間ほどの対空戦闘を行い、
幸い攻撃は受けたものの、被害はなく
終わっています。

 しかし、ここで、護衛駆逐艦榧、樫、杉の
3隻の燃料不足が、大問題となってきました。

 潜水艦に狙われやすい巡洋艦と、燃料不足の
ため、速度を出せない護衛駆逐艦を一緒に
行動させることは、艦隊全体が危険になると
判断されました。

 木村少将は、ここで、艦隊を2分し、護衛駆逐艦を
おいていくという、非情な決断しています。霞、朝霜、
足柄、大淀は、みるみる護衛駆逐艦から離れて
いきました。

 木村少将は、決断したものの、後ろ髪をひかれる
思いであり、何度も後方を確認していました。

 12月28日午後6時30分、霞、足柄、大淀、
朝霜の4隻は、無事にカムラン湾に到着
しました。どの艦も、疲労の色を浮かべて
いました。

 カムラン湾にいた駆逐艦檜と樅(もみ)は、
霞が入港する数時間前に出港していたので、
カムラン湾は、ひっそりとしていました。

 到着すると、大淀は、霞と朝霜に給油を
開始しました。当初、帰投時刻は、29日の
午前10時となっていましたが、偽の航路を
やめたことと、低速の護衛駆逐艦をおいて
きたことで、予定より早く到着していました。

 作戦が完了したと判断した木村少将は、
休むことにしました。

(追記)
 カムラン湾に入港する直前、敵の潜望鏡が見えた
ということで、潜水艦に対する攻撃を行っています。
湾は深水が浅いので、足柄は、潜水艦に体当たり
攻撃まで行いました(失敗しています)。

 爆雷攻撃で、海面に油が浮いてきたので、傷を
与えたと判断しています。アメリカ軍の資料では、
このとき、カムラン湾で行方不明となった潜水艦は
ないので、撃沈してはいないといえます。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)

木村昌福中将 敵潜水艦への攻撃 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 魚雷をかわした朝霜は、敵潜水艦の方に向かい、
爆雷攻撃を行いました。耳をつんざくような音が
静まると、水中探信機で、潜水艦を探しました。

 水中探信機(ソナー)は自分で超音波を出し、
反射してきた電波をとらえるものなので、音を
受動的に聞くだけの水中聴音機よりは、
潜水艦を探しやすいといえます。

 しかし、この当時の機械は、速度が速いと
探知が難しくなりました。朝霜は、12ノットに
速度を落とし、探査を続けました。

 ここで、天佑ともいえた荒波に悩まされることに
なりました。そのため、朝霜は、探査を途中で
打ち切っています。

 そして、霞に、「水中探信に適さず。制圧を
やめ合同す。敵潜水艦位置不明」と報告して
います。この報告を聞いた木村少将は、
朝霜は弱気だと、受け取りました。

 そして、合同して爆雷攻撃をするので、朝霜に
対して、誘導するように命じています。そして、霞も
爆雷攻撃を行いました。その間、他の艦は、速力を
上げて、この海域から離れていきました。

 ところが、このとき、敵潜水艦は、朝霜の攻撃を
かわし、足柄たちを追っていました。霞に、足柄から、
「魚雷音を探知する」の報告がありました。帰還途中で、
潜水艦の攻撃で撃沈されては、元も子のないので、
警戒にあたりました。

(追記)
 朝霜は艦首の艦底に水中聴音機を持っており、
水測兵は、最初に魚雷が近づいてくる音を、探知
していました。しかし、普段と違うと判断し、風雨に
よる雑音と勝手に判断し、報告しなかったという
ことです。

 朝霜は、過去に船団護衛中に同じミスをして
います。紹介しました通り、この頃朝霜は、
対空戦闘で、砲術長が何人も交代していて、
乗員の質が下がっていました。

 駆逐艦が最新型でも、乗員の質が低ければ、
能力は発揮されないことを示しています。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)

木村昌福中将 水葬 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 水葬は、旗艦霞の合図により午後7時から
行われました。艦尾の軍艦旗が、半旗と
なりました。

 後甲板で行われた水葬では、衛兵隊が
小銃を持って整列し、艦長以下士官は
純白の手袋に威儀を正し、不動の姿勢を
とりました。

 ラッパ手が、「命を捨てて」の曲を吹き鳴らし、
荘厳な情景は、乗組員の胸を締め付けました。

 衛兵が、3発の弔銃を発射しました。おもりの
代わりに砲弾をくくりつけられた遺体は、
舷側から海面に落とされました。

 「敬礼。英霊よ安かれ」の号令により、戦友に
黙とうを捧げました。


 水葬から3時間ほど経った頃、大淀の水中
聴音機は、左舷斜め前方に魚雷の通過音を
感じていました。操舵手は、一瞬のうちに
取舵(左へ回頭)しました。

 ところが、この魚雷は、右から放たれたもので、
本来なら逆に舵を切るべきでした。

 大淀の左側にいた朝霜は、魚雷に気付かず
鼻先をかすめたとき、見張り員が初めて気付き
ました。

 朝霜は、魚雷の放たれた右方向に回頭
しました。このため、大淀と朝霜は、距離が
近づくことになりました。

 魚雷は、本来朝霜を狙ったもので、大淀が
気付き、朝霜が気付かなかったことも問題
ですが、大淀の回頭方向が逆になったことも
問題でした。

 後に、戦訓として、朝霜と大淀の行動は
問題視されることになりました。

(追記)
 上記の水葬では、足柄に特攻したアメリカ軍
パイロットの死体も含まれていました。

 両腕を失い、黒こげとなった遺体に対し、
敵ながら天晴と感じた足柄乗員は、仮の
名前として「ミスター・ジョン」と命名し、
手厚く水葬の礼をとっていました。

 戦争中でも、敵に対する敬意は忘れては
ならないものと言えます。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)

木村昌福中将 敵機を振り切る [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 木村少将が、司令部に予定の連絡と、
準備のお願いをした1時間後、戦闘機が
2機近づいてきました。

 この2機は辛抱強く、日本艦隊の跡を
つけていました。しかし、攻撃してくる
様子はありませんでした。

 敵機に見つかった以上、偽装のための
小細工は不要と判断し、カムラン湾に
直進する方向に変針しました。

 戦闘機は、燃料の許す限りギリギリまで
追跡していたようでしたが、途中で姿が
見えなくなりました。

 再度、対空レーダーに敵機が写った時は、
艦橋内は緊張に包まれましたが、敵機は
日本艦隊を発見できず探し回っているよう
でした。

 このときは、雲も多く、視界が悪かった
ため、発見できなかったといえます。

 艦隊は、対空戦闘の準備をしながら、
敵機が飛び回っている45分もの間、
緊張しながら待ちかまえていました。

 敵機はあきらめたのか、去っていきました。
悪天候は、行きも帰りも、日本艦隊に恵みを
与えてくれました。

 敵機が去ると、落ち着きを取り戻し、
艦隊では、戦死者の遺体を水葬に
すべく準備をしました。

 この後、敵機が出現するという報告が
あり、水葬はのびのびとなりましたが、
航路の半分の海域で行うことが
できました。

(追記)
 木村少将は、運がいい提督だと言えます。
キスカ島からの撤収作戦でも、幸運に恵まれて
いるといえ、幸運の女神の祝福を受けている
ような方です。

 この礼号作戦では、戦死者は、霞5名、
足柄41名、朝霜3名、榧4名、樫3名、
清霜84名でした。杉は戦死者は
いませんでした。

 少なくないとはいえ、この当時のアメリカ軍
相手に、対空戦や海戦をして、撃沈が清霜
一隻だったのは奇跡といえます。


紹介書籍:第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃  著者:木俣 滋郎(きまた じろう)
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