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巡洋艦大淀 上陸許可 [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、甲板整列については、 馴れるしかないと悟りました。  逃げることのできない下級兵の宿命と 悟れると、精神棒の前に立っても、始め ほどの悲壮感は、なくなってきました。  やがて、それが自分を鍛え上げてくれる ものと、思えるようになり、進んで受ける ことができるようになりました。  「次」とうながされ、前に進み出て、 「お願いします」と一礼して受ける鍛錬は、 体中に渡る痛さでした。  受け終わって、「ありがとう ございました。」という言葉が 本心から言えるようになったのは、 乗り組んでからまもなくだったと しています。  常夏のトラック島での艦隊勤務は、 厳しいものがありましたが、月に 一度くらい上陸が許可されました。  上陸は昼間の8時間だけで、乗組員 4分の1ずつ春島に、内火艇などで 分乗して送り届けられました。  島の海岸通りには、見事な葉振りの 椰子の並木が続き、地面は緑の鮮やかな 草が生い茂っていました。  小淵氏は、陸に上がって大地を踏む ということが、こんなに素晴らしい ものだとは、思ってもみませんでした。  小淵氏は、原住民から椰子の実を買って 飲んでみましたが、きゅうりの汁を薄めた ような青臭い味で、話に聞いたほど、 うまいとは感じませんでした。  春島は、トラック島の中では、一番大きく 最も開発されていました。しかし、町は、 原住民の丸太小屋が並んでいるくらいで、興 味を引くものはありませんでした。  上陸する艦船の下士官集会所に 行ってみましたが、テーブルと 椅子があるくらいでした。  小淵氏は、島の反対側に行って みることにしました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 鍛えることの意味 [巡洋艦大淀]

 甲板整列は、日本海海戦に勝ち抜くために 鍛え上げられた先輩から受け継がれたという 鍛錬でした。  「誰もが同じように鍛えられてきたのだ。」と 肝に銘じて必死に頑張るほかありません でした。  あらゆることに厳しく鍛え上げられる 艦隊勤務の兵は、根性も養われ、意地が 固まり、肝っ玉も太くたくましくなって いきました。  甲板整列が、下級兵にとっての苛酷な 体罰であったことは間違いないものの、 より以上に精神の鍛錬場でした。古い兵が 新しい兵を鍛え上げていく。  それは誰が命令するわけでもないものの、 掟が厳然として存在し、下級兵は厳しく 鍛え上げられました。  さらに、艦ごとに気風がありました。大淀は、 元戦艦比叡の乗員が多数乗り込んで いました。そのため、比叡の伝統や気風が そのまま受け継がれているようでした。  第三次ソロモン海戦で、敵の集中砲火を 浴びながら猛闘した比叡は、日本海軍で 最初の沈没した戦艦でした。  その比叡での戦闘体験をしてきた先輩たちは、 自分の乗った艦は、決して沈めてはならないと 考えていました。  艦の戦闘力を握っているのは、艦長でも士官 でもなく、下士官がその艦の能力を左右する 偉大な力になっているのだという信念と 気迫に満ちていました。  いかなる名将が指揮し、知将が作戦を立てても、 下士官兵の質が低下していたら、軍艦は能力を 発揮することはできませんでした。  トラック在泊中、大淀の下士官兵は、連合艦隊 最強の兵であらねばならないとして、鍛えに 鍛え上げられました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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