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まるゆ 人間万事塞翁が馬 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 大和との感動的な遭遇をした岡田教官は、陸軍にいながら
すっかり「海軍びいき」になっていました。

 そんな折、岡田教官は、まるゆ部隊を離れ、広島にある
船舶司令部に、転勤の内示を受けました。そして、三島
から船舶司令部に出張した際に、そこにいた陸軍の
高官に挨拶に行きました。

 この時、海軍びいきだった岡田少尉は、普段真似していた
海軍式の敬礼を、うっかりこの高官の前でやってしまいました。
海軍式の敬礼をした岡田少尉に、「その敬礼は何だ。それでも
帝国陸軍か。」と罵倒されることになりました。

 このことが原因で、岡田少尉は、船舶司令部への転属はなく
なり、九州の久留米歩兵部隊への転属命令に変更されてしまい
ました。

 岡田少尉は、「とうとう都落ちか」とがっかりし、「あの野郎
くたばっちまえ」と思っていましたが、どうしようもなく、当日、
船舶司令部付となった仲間の将校と広島駅で別れました。

 この将校たちは、岡田少尉を慰めていたものの、華の軍部
勤めに嬉しそうでした。岡田少尉は、ただ一人都落ちにやけ
に身にしみる汽笛の中で行く末を案じていました。

 しかし、岡田少尉が仲間と広島で別れてから2時間後の
1945年8月6日午前8時15分に、広島に原爆が投下
されました。

 広島に転属がなくなった岡田少尉は助かることになりま
した。人間万事塞翁が馬の典型例でした。

(追記)
 陸軍の敬礼は、右ひじを横にピンと張って行います。対して
海軍は、脇を締めて右手を縦に行いますので、一目で違いが
分かります。

 上記の高官は、自分がどれだけエライかを誇示したがる
「ロクでもない男」として知られ、まるゆ隊員から
総スカンを食っているような人物でした。

 なので、岡田少尉が、「あの野郎くたばっちまえ」と言った
のは、この件だけが原因ではありませんでした。岡田少尉も、
広島の惨状を聞いて、くたばっちまえと言ったことを悔いて
いました。

まるゆ 大和に対し登舷礼 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 敵機の機銃掃射から逃げ切って、ほうほうの体で三島基地に
帰還する途中の来島海峡に差し掛かった時、「山のような」
ものがやって来るのに出会い、岡田教官は肝をつぶしました。

 山のようなものは、戦艦大和で、沖縄への特攻作戦である
菊水作戦に参加するための最後の航海でした。陸軍といえ
ども、この世界最大の戦艦のことは聞いており、岡田教官
も当然知っていました。

 岡田教官は、艦と艦がすれ違う際に交わす海の儀式で
ある登舷礼をいつかやってみたいと思っており、手空き
の総員に「登舷礼用意」の号令をかけています。

 岡田教官は、大和に対し登舷礼が出来ると考え、「不足
はないどころか、お釣りが来るくらいの大物」と思っていま
したが、付き合わされた艇員は迷惑な話だといえます。

 岡田教官は、軍刀を抜き、甲板に整列した艇員に「頭
(かしら)-っ、右」と、一世一代の晴れ姿を見せました。

 すると、大和の甲板に総勢100人くらいの水兵が整列し、
「頭右」をしており、しかも、最大級の挨拶であるラッパ
吹奏つきでした。この行為に、岡田教官と艇員は感動の
面持ちで、甲板に立っていました。

 これで終われば感動的でしたが、感動の面持ちで甲板に
立っていた岡田教官らは、大和の航跡による大波を食らって、
ひっくり返るというオチになっています。

(追記)
 岡田教官は後に、300tしかないおもちゃのような
潜水艦に、7万tもある戦艦が、礼を尽くして去って
行ったことに、

「あまりの感動に、目頭が熱くなって来ました。あの勇姿は
忘れることはできない。あのときほど潜水艦は良いものだと
誇らしい気持ちになったことがない」と記しています。

まるゆ部隊の教官として [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 まるゆ部隊の教官として配属された岡田氏ですが、
潜航訓練で早速失敗をしてしまいました。適当な
ところで浮上したところ、日本海軍の最大軍港で
ある呉軍港の真ん中でした。潮流が激しく、流さ
れたようでした。

 見慣れない潜水艦が、マル秘扱いである軍港に
浮上したので、海軍は驚くことになり、岡田教官
は、問答無用で拉致され、尋問を受けることに
なりました。

 尋問したのは、伊号潜水艦の艦長だったことも
あり、理解してくれ、最後は握手してくれました。

 また、四国沖で訓練用のまるゆに乗って、訓練
していたところ、「敵機来襲」の報告が来ました。
四国の山脈を越えて飛行機の編隊が近づいてくる
ので、「友軍機のお迎え」と考え眺めていたら、
機銃掃射を受けることになりました。

 大阪方面に爆撃した後の、帰還中の敵機でした。
あわてて、今までしたことがない急速潜航を命じて、
何とか逃げ切れました。

 しかし、急速潜航したため、潜航の惰性が強く
なり、海中で水平姿勢にならず、どんどん潜航
していくことになりました。

 艇内ではもう駄目だと観念したところ、まるゆは
頭から海底にぶつかって止まることができたので、
助かりました。後に、この時受けた機銃掃射に
よる弾痕は「二百何発」に達していたことが
分かりました。

(追記)
 岡田氏は、呉軍港で尋問を受けたとき、伊号潜水艦の
艦長が話のわかる方だったようで、伊号潜水艦に招待
されています。この時、まるゆと伊号潜水艦の違いに
驚いています。

 「まるゆは300tほどで、艇長室は畳一枚くらい
しかないのに、伊号潜水艦は、飛行機も積んでいる
1万t級の船でした。

 艦長室がは、ホテル並みで、御馳走も本格的な西洋
料理と、雲泥の違いでした。」と記録しています。

まるゆ 日本画家も岡田守巨(おかだもりお 本名盛一)氏 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 瀬戸内海で、まるゆに乗り込んで訓練していた一人に、
日本画家の岡田守巨(おかだもりお 本名盛一)氏が
いました。

 岡田氏は、東京美術学校を繰上げで卒業し、幹部候補生
として、士官学校を経て、近衛歩兵第五連隊に配属後、
船舶指令部に来ています。

 そして、まるゆ部隊に配属となり、「陸軍が船に乗り、
おまけに潜るとあっては、命がいくつあっても足りない」
と感じていました。まるゆ部隊に配属された仕官は、
文科系が艇長、理科系が機関長に振り分けられて
いました。

 岡田氏は、艇長要員として、海軍の潜水学校に行きましたが、
岡田氏が入校した時期は、なぜか、二等兵と同様の扱いを
受け、シゴかれることになりました。海軍の下仕官から
海軍精神注入棒でたたかれることになりました。

 岡田氏は、「たまったものではない」と言っていますが、
「命がけなので、棍棒で殴られようが技術をマスターしたい
の一念でがんばっています。

 そして、航海機器の六分儀の扱いが器用だった(本人が
一番驚いているようです)ため、後輩の見習士官組の教官に
任命されています。

(追記)
 岡田氏が当初所属していた第五歩兵連隊から、船舶司令部に
配属になったのは、岡田氏を含め2人だけでした、もう一人は、
高速輸送大隊に配属となっています。

 高速輸送艇の方が安全と考えられたこともあり、まるゆに配属
された岡田氏は、上記の通り「命が足りない」と感じたよう
ですが、高速輸送艇は、飛行機のエンジンで、50km近くで
走るので、却って敵の標的になりやすくもう一人は戦死して
います。

まるゆ 船乗りの陸軍に対する感情 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 1945年になると、陸軍は、潜水輸送隊のまるゆの
他に、高速輸送大隊のイ号高速艇、海上駆逐大隊の
カロ艇、海上挺身隊の肉薄攻撃艇など、独特の攻撃
兵器が宇品を中心とした瀬戸内海で、猛訓練を続け
ていました。

 瀬戸内海で訓練をしていれば、当然、瀬戸内海で
行きかう船舶に、目撃されることになります。
そして、目撃した船は、軍艦旗ではなく、日の
丸を掲げている潜水艦に対し、驚いています。

 後に、陸軍の潜水艦と知り、「百姓が船を操るような
もの。陸軍が潜水艦を作ってどうするのか。」と言って
いました。

 上記の言葉からも類推できますが、当時の船乗りの
陸軍に対する感情は、あまりいいものではありません
でした。この当時は、輸送船は、陸軍と海軍が独自に
徴用という形で、それぞれの指揮下に入りました。

 海軍は、自分が軍艦を扱っていることもあるので、
輸送船の乗員に対して、理解は示していました。

 しかし、陸軍は、船への理解は少なく、何千tもある
船をタクシー代わりに使うといったことや、潮や敵潜水艦
情報を無視した運航を命令するなどの無茶なことをやって
いました。

 船乗りたちは、独善的な陸軍の態度を不愉快に思って
いました。

(追記)
 この当時、陸軍だけではなく海軍も特殊兵器による
訓練を行っていました。海軍は、小型の潜航艇や
高速艇「震洋」などで陸軍と似たようなもの
でした。

 相互に交流はなかったものの、訓練中に、独特のエン
ジン音を聞くことがしばしばありました。

 まるゆの八号艇が、江田島の近くの小島で小休止して
いた時、海軍で試作した上陸用舟艇がやってきて、
まるゆを見るなり、「よくこんな船に乗っていま
すな。棺桶と同じだ」と言われ、「海軍が上陸用
の舟で、陸軍が潜水艦とはこれいかに」と返し、
互いに大笑いしていました。

まるゆ まるゆ3001号艇の不運 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 おかしな「輸送特攻隊」伊豆丸に突撃されたまるゆ
3001号艇の不運はさらに続きました。

 危機一髪で、沈没は免れたまるゆ3001号艇ですが、
修理のため、朝鮮半島の南端を回って、釜山に向かい
ました。衝突の衝撃で、艇速が落ちたままの航海
でした。

 航海の途中、味方の輸送船団とすれちがいました。
眺めていると、突然砲声が来ました。輸送船の護衛艦が
発砲したものでした。最初は、まるゆ前方に、次がまるゆ
の後方に水柱が挙がりました。

 以前紹介しましたが、マニラ方面で、まるゆ1号艇と
3号艇を見た海軍の輸送船団が、撃つ寸前になりながら、
艦長がとめたため、発砲されませんでした。これは、
指揮している艦長の差といえます。

 砲撃が、教典通りの“遠-近”となった“挟叉”状態となり、
次発砲されたら、確実に真ん中に飛んでくることになり
ます。まるゆ内では、「総員配置」と「取り舵いっぱーい」
の命令が出て、左回頭する事で、難を逃れました。

 しかし、相手の護衛艦は、なおも突進して来ました。
まるゆも全力で逃げることになりました。その時、相手の
護衛艦が、まるゆにつけられた日の丸を発見し、発光信号
を送ってきました。

 「なぜ、軍艦旗を掲げざるや」という問いに対し、「我、
陸軍の潜水艇なり」という返答をしています。

 しばらく相手は沈黙していましたが、「安全なる航海を
祈る」という返答が来ました。まるゆからも「ありがとう。
武運長久を祈る。」と返事して分かれました。

(追記)
 まるゆ3001号艇は、40日もかけて、辛うじて目的地の
愛媛県三島の基地にたどり着きました。

 味方から攻撃を受ける不運に見舞われたまるゆ3001号艇は、
耐圧船体にひずみを生じており、教育訓練艇として使用され、
終戦を迎えることができました。

まるゆ 輸送船伊豆丸 まるゆ3001号の左舷中央に突っ込む [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 輸送船伊豆丸は、まるゆ3001号の左舷中央に
突っ込み、衝突後も惰性でさらに押し続けていま
した。

 出口艇長は、とっさに「碇を伸ばせ」という号令を
かけましたが、見張り員がすでに行っており、まるゆ
の損傷を減らすことになりました。

 出口艇長は、伸ばしていなかったら、衝撃をもろに
受け、まるゆの損傷はもっとひどいことになっていたと
しています。幸い、内殻にひびが入っただけで、浸水
の恐れはありませんでした。

 慌てていたのはまるゆの艇員だけでなく、伊豆丸の
船員達もばたばたしていました。しばらくすると、
後進し始めました。やっと一安心したところで、
まるゆの艇員は、伊豆丸に対し文句を言いたく
なってきました。

 出口艇長は、発光信号で、「船長、来たれ」と通信
しました。間もなく船長が、救命艇でやってきました。
出口艇長は、文句をつけたい激しい衝動にかられて
いましたが、うちしおれた格好の船長を見て、
気の毒になってしまいました。

 伊豆丸は、群山に入港して船首の破損個所の修理
を受けています。その間、船長と機関長はこの地区の
憲兵隊分隊に呼ばれて調書を取られた上に、散々
絞られることになりました。

(追記)
 伊豆丸は、修理後門司にある海軍武官府に出頭せよ
という命令を受けたので、重罪覚悟で出頭しました。

 ところが、そこにいた海軍少将から、「貴官らの敢闘
精神は見上げたものである。止むを得ざる処置であると
同時に、むしろ勇敢な行為である」と褒めていました。

 伊豆丸は、戦争を生き残り、終戦後「復興物資輸送」に
勤めています。1952年12月末に解体処分のため業者に
引き渡されています。おかしな「輸送特攻隊」のお話でした。

まるゆ まるゆ3001号 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 輸送船伊豆丸の突撃を受けたまるゆは、「まるゆ3001号」と
呼ばれていた、朝鮮機械製作所で製作した1号艇でした。
1944年4月10日に、進水しテストの後、8月2日に、
陸軍に引き渡されています。

 仁川湾で、1ヶ月間にわたる習熟訓練を経て、9月8日に
仁川を出港し、愛媛三島のまるゆ部隊基地に回航される
途中でした。伊豆丸の突撃を受けた9月9日は、群山港
近くに仮泊していました。

 まるゆは、仁川を出るとき、「夜間航行は避け、潜航も
するな」と言われていました。これは、敵の潜水艦と誤認
されないための処置だったようですが、伊豆丸からは
敵潜水艦と思われたので、裏目に出たことになります。

 まるゆでは、碇を下ろし、見張りを配置していました。見張りは、
伊豆丸が接近してくるのを確認しており、接触しないで通過して
くれることを祈っていました。無事に通過しほっとしたところ反転
して、全力で突っ込んできました。

 見張り員は、「味方だ!」と叫ぶのが精一杯でした。この時、
仮眠を取っていたまるゆの出口艇長は、衝撃と轟音で、跳ね
飛ばされることになりました。非常灯が消え真っ暗な中、
司令塔に行ってみると、山のような塊が、まるゆの
左舷中央部に食い込んでいました。

(追記)
 今回の事故(事件?)に対して、伊豆丸の船長は、
敵潜水艦を避けるように島の間を走っていたところ、
月明かりを背にした時、敵潜水艦を発見したと証言
しています。

 この事から、上記の見張り員が、通過することを
祈っていた時は、伊豆丸は、まるゆの存在に気づ
かなかったことになります。

 通過後に、まるゆを発見したので、Uターンして
突撃をしたということでした。

まるゆ 火の玉のごとく [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 まるゆは、陸軍の極秘の兵器だったため、不運な目に
あったことがありますので、紹介します。

 1944年9月の深夜、日本郵船の貨物船「伊豆丸」が
朝鮮半島群山沖を航行していた時、前方1.5kmの所に
浮上している潜水艦を発見しました。月明かりの中、
司令塔や大砲まで双眼鏡で確認できました。

 この海域で、僚艦が撃沈されていたので、伊豆丸船長は、
非常ベルを鳴らし、「敵潜見ゆ」「総員配置につけ」の
号令を出しています。

 同時に、軍艦識別帳と照らし合わせ、識別を行うと、
日本海軍に、該当する潜水艦はなく、海軍に問い合わ
せても、その海域に出動はしていないという返事でした。

 この当時、日本と朝鮮半島との間の輸送ルートも危うくなり、
アメリカ軍による空襲や雷撃が、しばしば繰り返されていま
した。そのため、輸送船は「輸送特攻隊」と称されて、決死
の輸送を行っていた時期でした。

 そのため、眼前に味方ではない潜水艦を発見し、気が立って
いました。船長と機関長は相談の上、「もう逃げられない。やる
べし。」という悲壮な覚悟を決めました。しかも、乗員は、スパナ
やハンマーを持って、敵潜水艦に乗りこんで、殴り合いをする
つもりでいました。

 そして、伊豆丸は、敵と思われる潜水艦に火の玉のごとく
突っ込んでいきました。

(追記)
 伊豆丸は、882tの貨物船ですが、航海のたびに、1400t
もの積み荷を輸送しており、舷側に腰をかけると、足が海水に着く
ほどでした。この目標以上の積載に対して、奨励金を受けるほど
でした。

 輸送するときは、昼間は島影に潜み、夜になって島伝いに走る、
忍者のような航行をしていましたが、航跡を残しており、「とんだ
忍者だと冷や冷やものでした」という乗員の記述があります。

まるゆ 五味曹長 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 まるゆ八号艇にいて、一人全身打撲の重傷となった
五味曹長の話がありますので紹介します。

 この当時、陸軍は、「いまや国内のどこも安全な場所は
ないので、家族のあるものは呼びよせよ」という前代未聞
の命令を出しており、五味曹長は奥さんを呼び寄せていま
した。

 空襲警報の時、奥さんは防空壕に誘導されましたが、
夫の五味曹長が気になり豪に入る気にならなかったと
話しています。しかも、この時、夫が包帯だらけで戻っ
てくる瞬間が浮かんでいました。

 五味曹長は、司令塔を爆撃された時、空中に放り出され、
岩場まで飛ばされていました。そして、奥さんが病院に行っ
た時は、五味曹長は、思い描いた包帯だらけの姿で救助
されていました。終戦後、五味曹長は宇野艇長らと別れ、
故郷の和歌山に戻ることができました。


 故郷に帰り、五味曹長は、妙な体験をしています。病院を
退院したとき発行された戦傷証明書を役場に提出するように
求められました。おかしいとは思ったものの、従いました。

 年を重ねるごとに爆風でやられた後遺症で、毎晩マッサージが
必要なほど痛み出してきました。戦傷者年金の制度があると周囲
から勧められて、証明書の返還を役場に求めましたが、あいまな
対応でした。

 宇野艇長に相談し、写しを取り寄せることができましたが、
写しの入院の日付が、1945年9月1日になっていました。
この書き換えのことを、五味曹長は、晩年まで気にすること
になりました。

(追記)
 戦傷者に対してこのような扱いをするようでは、国防が
大事といくら言ったところで、賛同者など現れないといえ
ます。

 防衛力の強化を行うなら、戦闘になった時の戦死者や
戦傷者にどのような支援をするのかを決めておき、
きちんと実行されるという保証がなければならない
ということを示しています。
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