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まるゆ 船舶練習部第一教育隊 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

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 1945年6月、広島湾に浮かぶ似島の深浦地区に、
船舶練習部第一教育隊という隊名を掲げた部隊が
新設されました。

 船舶司令部から要請を受け、まるゆ部隊からも、この
部隊に、60人ほどの隊員が、転属することになりました。

 この転属にあたり、3日間の特別休暇が与えられた上、
民間の汽車利用が制限されていた時代に、故郷までの
鉄道乗車券まで手配される至れり尽くせりの状態でした。

 このような処遇をうけるとなれば、ロクなことはないと
いうのが鉄則で、実際その通りでした。

 部隊に転属する時に、「自分の腹を切るための軍刀
ぐらい自分で用意しておけ」などという物騒なことを
言われて送り出されました。

 第一教育隊に着くと、そこは特攻隊養成所でした。
昼間の座学は、特攻をいかに納得させるかという
精神教育がメインでした。

 ちなみに、ここに呼ばれた人達は、下士官養成目的で
陸軍が設けた船舶特別幹部候補生隊、通称“特幹”と
呼ばれている人達の第二期生で、旧制中学を卒業
したばかりの、14歳~19歳くらいの少年でした。

 そのため、上記の教育を受けたくらいで、気持ちの整理が
つくわけはありませんでした。

(追記)
 特幹は、1944年2月に受験と合格発表がなされており、
合格者は4000人で、1800人が第一期生、残りの2200人
が第二期生として入隊しています。一期生と二期生は、同じ時期に
受験していながら、入隊時期は5カ月ほど離れていました。

 第一期生は、教育が完了し、フィリピンや沖縄で特攻作戦
につき、9割以上の隊員が敵に突入して亡くなっています。

 しかも、アメリカ軍の資料には、この特攻は奇襲攻撃となり、
相当の戦果が上がったという記録が残っていますが、特攻で
あるため帰還者が誰もおらず、日本軍は戦果の確認ができ
ませんでした。

 そのため、特攻戦死という扱いは受けず、ただの戦死として
処理されてしまいました。


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