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巡洋艦熊野 兄戦死 [巡洋艦熊野]

 日本海軍は、レイテ沖海戦の続き、増援の
陸兵を投入する努力を、重ねていました。

 1944年11月11日、オルモック沖で、
船団が壊滅し、その様子が熊野にいる左近允氏の
もとに、届けられました。

 そこには、油槽船4隻と早川幹夫第二水雷
戦隊司令官が乗艦していた島風以下駆逐艦5隻と
掃海艇1隻が、アメリカ軍の空襲を受け、朝霜を
のぞく全ての艦船が、撃沈したというものでした。

 左近允氏は、電報を読んだ時点で、島風の
砲術長として乗っていた兄は戦死確実と考え、
コロン湾やマニラで信号をかわしたこと、
前月中旬に、シンガポールで、親子3人が
会し、7年ぶりだと父が喜んでいたことなどを、
思い浮かべました。

 後に、左近允氏の兄は、主砲指揮所で、
敵機の銃弾を浴びて、戦死したことを
知りました。


 ある日、熊野の方にまっすぐ向かってくる
航空機の編隊を、発見しました。ルソンに
来襲する場合、ラモン湾のポリロ角見張所から、
警報が出るのが常でした。この日は出ておらず、
人見艦長は、左近允氏に識別を依頼しました。

 熊野は、対空戦闘の準備を整えましたが、
左近允氏は、敵機のどれでもないことを確認
しましたが、味方機でもないと判断しました。

 艦上爆撃機の彗星に似ているものの、
エンジンが空冷式であり、違う機体でした。
判別がつかないまま、主砲と機銃の発砲が
命令されました。

 敵なら攻撃隊形をとるはずですが、編隊のまま、
熊野上空に差し掛かりました。マークは見えず、
左近允氏は、判断がつきませんでした。

 後でわかったことですが、この機体は空冷式
エンジンに変えた彗星でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 水問題 [巡洋艦熊野]

 台風により走錨していた熊野でしたが、
幸い、錨が海底に食い込んだようで、
艦橋の震えが止まりました。

 陸上探照灯の光源方位が変わらず、
熊野は止まったようでした。この時点で
危機は去ったと判断できました。

 時間が経つと、次第に風は治まりました。
朝になり、艦の位置を測定すると、1.2kmも
流されていました。幸い、さしたる被害は
ありませんでした。


 熊野がしなければならないのは、動ける
ようにすることでした。12日の朝、
マニラからきた技術少尉が入港し、
直ちに、機関室の排水を行いました。

 排水に2日かかり、14日から、機関室の
整備をはじめました。人見艦長は、総員を
甲板に集合させ、今日までの乗員の労を
多とし、たおれた戦友に哀悼の意を示した後、
課された任務は、なんとしても熊野を内地に
回航して修復し、海軍の戦闘力に加えること
だとしました。

 ここで、一番の問題になったのは、水でした。
真水は、機械の運転に欠くことはできず、
排水を終えた機械の塩分を取り除くのにも
必要な上、乗員の飲水にも必要でした。

 熊野の造水装置は破壊されており、桟橋の
送水ポンプは、破壊されて、使えない状態
でした。これで、1000tの水をどうやって
入手するかが、大きな課題でした。

 検討の結果、近くにある川からカッターで
運搬するということになり、機関科は、機関の
修理に、甲板員は、上空警戒と、水運びで
一日がくれるという生活が続きました。

 そのような中、左近允氏は、電報を寂しく
読んでいました。それは、11月11日に
行われた、オルモック沖での戦闘の件でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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