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巡洋艦熊野 送迎会準備 [巡洋艦熊野]

 11月28日の午後、左近允氏は、
数人の士官、下士官と一緒に、付近の
民家をまわりました。

 目的は2つあり、一つは、機密文書を
拾っていないか確認するため、もう一つは、
古河鉱山の社員が送別会を開いてくれると
言うので、鶏を調達できないかと考えたから
でした。

 取引用のビスケットと、米を持って、陸軍の
下士官に通訳兼案内を頼んで、海岸近くにある
林の中に向かいました。そこには、点々として、
粗末な高床の家々がありました。ここで、何か
拾ったら出すように伝えておきました。

 どの家も子沢山で、驚きましたが、ビスケットを
少しずつ分けてあげました。しかし、目的の鶏は
なかなか、手に入りませんでした。

 大の日本びいきという副村長の家を訪ねると、
牛なら一頭上げられるということでした。
ありがたいものの、送別会までに料理する
ことは無理でした。結局、夕方までに鶏を
持って来るという男がいたので頼むことに
しました。

 村を探すと、書類も出てきました。タバコの
巻紙に使うつもりのようでした。その中に、
主砲分隊員の略歴と考課表を入れた箱が
見つかり、分隊士である加茂川少尉は、
喜色満面となり、大いに他の隊から
羨ましがられました。

 これは、艦が沈んだ後の残務整理に使用する
もので、これがないと、残務整理は苦労する
ことになります。

 宿舎に戻ると、豚の丸焼きを作っており、
鶏を訳した男も約束通り持ってきて、マッチと
交換で帰っていきました。これで、送別会の
準備が整いました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 サンタクルーズの空気 [巡洋艦熊野]

 左近允氏は、乗員の多くが寝泊まりしている
小学校に行ってみました。元気にわらじを
作ったり、ヤシの実で食器を作ったり
していました。

 左近允氏は、乗員の一人から、わらじを
進呈されました。暑さと傷みで閉口していた
左近允氏は、嬉しくなりました。


 戦死した乗員には申しわけないものの、
時がたつと、艦に残したものが、惜しく
なってきました。この感情は、左近允氏
だけでなく、誰しもそうなってきました。

 左近允氏は、ストップウォッチがついた
スイス製の時計と、象が刻んである銀の
シガレットケースが惜しくなりました。

 シガレットケースは、タイの駐在武官だった
父の尚正(なおまさ)氏が、ピブン首相から
贈られ、それを左近允氏がもらったもの
でした。

 泳いで上陸した頃は、もちろん命だけで
満足していたものの、喉元すぎれば
何とやらで、現金なものだとしています。

 それでも、身につけていたワニ皮のベルトや
パイロットの万年筆、ナイフを一本持っており、
内務長に物持ちだと言われていました。

 11月28日、マニラから、翌日の29日に
掃海艇が迎えに来るという電報がきました。
皆、久しぶりの陸上生活を満喫し、サンタ
クルーズの空気にすっかり気に入って
いたので、この電報に、物足りなさを
感じました。

(追記)
 熊野から持ち出せた、ワニ皮のベルトや
パイロットの万年筆、ナイフを一本などは、
次に左近允氏が乗艦した松型駆逐艦「梨」が、
1945年7月28日に撃沈した時、全て
失っており、残ったのは、右足首の火傷の
痕跡のみとなりました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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