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巡洋艦最上 著者曽禰氏、艦長として着任 [巡洋艦最上]

 1941年9月14日、呉軍港に在泊
していた巡洋艦最上に、著者の
曽禰氏が艦長として着任しました。
生涯忘れられない日であったと、
しています。

 桟橋には、曽禰氏を迎えるための
内火艇が用意されており、新しい赤の
縁取りをした艦長用の敷物が、ひときわ
美しく敷かれていました。

 しつらえた席にどっかと腰を下ろし、
前方に艦長公式乗艇を示すペンデントが、
はためいているのをみました。

 艇を指揮する若い少尉は、今度の
新艦長は、どんな人だろうとひそかに
観察しているように見えました。
間もなく、内火艇は、最上の右舷に
ピタリと横付けされました。

 曽禰氏は、副長の福岡徳次郎中佐以下
乗員総員が威儀を正して出迎えるなかを、
一歩一歩舷梯を、静かに登っていきました。
登ると前任の艦長である有賀武夫大佐が、
ニコニコと出迎えておられました。

 曽禰氏は、最上に着任する前は、軽巡洋艦
長良の艦長をしていました。長良は5500tに
対し、最上は1万tもある巡洋艦であり、
どっしりとしていて、たのもしさが
一杯だと感じていました。

 曽禰氏は、衛兵礼式とサイドパイプ(儀式の
一種で兵曹の吹く号笛)、総員敬礼のうちに、
第一歩を最上上甲板にしるしました。
午前11時でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊最上 諸元 [巡洋艦最上]

 今回から、熊野同型艦にして一番艦である
巡洋艦最上について、同じ書籍に掲載されている、
“重巡最上出撃せよ
ミッドウェーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記”
から、活躍を紹介します。

 著者は、曾禰章氏で、最上の艦長を
務めていた方です。

 最初に巡洋艦最上の諸元をWikipediaから
抜粋してみます。

起工 1931年10月27日
進水 1934年3月14日
就役 1935年7月28日
最期 1944年10月25日 レイテ沖海戦で大破、雷撃処分
除籍 1944年12月20日
要目
排水量 基準:11,200トン(新造時)
    基準:12,200トン(1943年)
全長 200.6 m
最大幅 20.6m
吃水 6.9 m(新造時)
機関 ロ号艦本缶大型8基、同小型2基
艦本式タービン4基4軸
出力 154,226馬力(新造時公試成績、標準全力)
160,912馬力(全力公試)
速力 35.961 ノット (新造時公試成績)
36.486ノット(全力公試)
34.735ノット(1937年公試成績)
燃料 重油:2,280トン
航続距離 14ノットで8,000海里
乗員 竣工時定員944名
兵装
    竣工時
15.5センチ3連装砲塔5基15門
(1939年に20.3センチ連装砲塔5基10門と交換)
12.7センチ連装高角砲4基8門
61センチ3連装魚雷発射管4基12門
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
    1943年
20.3センチ連装砲塔3基6門
12.7センチ連装高角砲4基8門
61センチ3連装魚雷発射管4基12門
25mm3連装機銃10基
装甲 舷側:100mm 弾薬庫:140mm 甲板:35?60mm
搭載機 竣工時:3機(カタパルト2基)
1943年:11機(同2基)


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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