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巡洋艦最上 第七戦隊 [巡洋艦最上]

 この当時の第七戦隊に所属する艦と艦長は
以下の通りです。

 一番艦熊野が旗艦で、田中菊松大佐、
二番艦鈴谷が、木村昌福大佐、
三番艦三隈が、崎山釈夫大佐
でした。

 最上は四番艦に指定されていました。
(本来の最上型の番号と、ぴったり逆に
なっているのが面白いと感じます)。

 着任後、しばらくは、瀬戸内海方面に
あって、諸訓練に従事しつつ、きたるべき
有事に備える事になりました。

 曾禰氏は、この訓練期間に、何はともあれ、
最上に馴染むことが一番大切なことと考えて、
厳しく訓練に従事しました。

 こうしているうちに、郵便物の検閲や、
当分の間私信を禁止する等々、ただならぬ
気配を感じとれる事態が起こりつつ
ありました。

 1941年11月17日、第2艦隊愛宕から、
「指揮官参集せよ。」という旗信号があり、
各隊司令官、司令、各艦長、先任参謀が、
続々と愛宕に参集しました。

 愛宕にいる司令長官の近藤信竹中将が、
「かねて覚悟はお互いにできているはずで
あるが、・・・」と前置きし、征戦に
のぞむに当たっての心構えについて、
緊張した口ぶりで、訓示を述べました。

 そして、「まもなく、展開命令も発令
されることであるから、その旨を心得よ。」
と、一同に伝えました。

 この瞬間、曽禰氏は、「しまった」
という一念で一杯だったとしています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 艦長公室の御製 [巡洋艦最上]

 曽禰氏は、前任の艦長である有賀大佐から、
必要な申し次つぎを受け、昼食をともにした後、
12時過ぎに、総員の見送りを受けつつ、次の
任地に赴任するために、退艦していきました。

 曽禰氏は、直ちに、総員集合を命じ、着任を
告げると同時に、時局重大なるおりから、さらに
任務に専念するようにと、訓示しました。この時、
最上には、「我新艦長着任せり。」の旗旒信号が、
掲げられていました。

 その後、曽禰氏は一休みした後、鎮守府、工廠、
軍需品、港務部や、各艦に着任の挨拶をするため
歴訪しました。公式儀礼行事が終わると、ひとり
静かに艦長公室に座って、正面をながめていました。

 正面には、江為守子爵(侍従を務めた方)謹書の
御製がありました。そこには、
「広き野を 流れ行けども 最上川 海に入るまで にごらざりけり」
と雄渾な筆跡で書かれた見事な扁額がありました。

 この扁額を、しげしげと見つめていた曽禰氏は、
これから先の重任に、いつか思い巡らして
いました。この当時、最上は、同型艦の、
三隈、鈴谷、熊野と一緒に、第七戦隊に
所属しており、司令官は、栗田健男少将
でした。

(追記)
 上記のように、新艦長が、訪問した時に、
相手が不在などで、直接来意を告げることが
できない場合は、名刺の右隅を少し折って、
直接、本人が訪問してきたことを示す
風習がありました。

 これは、前回紹介したサイドパイプ同様、
英国から伝わってきたもののようですが、
曽禰氏はなかなか奥ゆかしいと
感じていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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