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巡洋艦熊野 兄弟の信号 [巡洋艦熊野]

 11月4日深更、熊野は、マタ31船団や
青葉と一緒に、マニラを発ち、高雄を
目指しました。

 マタ31船団は、3000t以下の油槽船
3隻と、海上トラックと呼ばれる小型貨物船
3隻よりなる、駆潜艇5隻が護衛についている
船団でした。

 平均速力は9ノットで、ルソンの西を、陸岸
ぎりぎりに北上するものの、敵潜水艦の攻撃を
避けるため、航行するのは昼間だけとし、毎夜、
港に入る計画となっていました。高雄到着は、
1週間後の予定でした。

 熊野は、現在16ノット以上出せる能力まで
回復しており、護衛艦2隻ぐらいあれば、
一気に北上して高雄の1日半で到着させる
ことができましたが、既に命令が出ているので、
従うしかありませんでした。

 11月4日、島風にいる左近允氏の兄から、
「出港予定時刻を知らせよ。」という信号が
来ました。

 左近允氏は、11月5日午前1時と返答して
います。その後、「安全なる航海を祈る。」
「ありがとう。衷心より武運の長久を祈る。」と
互いに信号を送りました。

 しかし、運命は、熊野は安全な航海は
できず、兄の武運も長久ではなくなりました。
この信号が、左近允氏ら兄弟がかわした、
最後の信号となりましたが、数日後のこの
運命を知るすべはありませんでした。

 午前1時、予定通り、熊野はゆっくり動き
出しました。コレヒドールを抜けて、湾外で
船団と合流し、北上をはじめました。

 熊野、青葉、油槽船2隻が、陸寄りに
縦隊を作り、残りの油槽船が、海側に
縦隊を作りました。

 更に海側に駆潜艇がつき、この配置で、
航行していきました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 マニラ逗留 [巡洋艦熊野]

 高雄に向かう決意をした人見艦長は、護衛を
付けてくれるように司令部に要望しましたが、
今は一隻の余裕もない、なるべく早く都合を
つけるから、しばらく待ってくれとの回答しか、
得られませんでした。

 深夜に帰還した人見艦長は、出港準備
作業の中止を命じました。結局、熊野は、
翌日の10月30日に、浮標に係留後、
マニラに11月4日一杯まで留まることに、
なりました。

 熊野では、29日の空襲による苦しい
経験から、陸上や他艦に頼ることなく、
一番に敵機を見つけようと、意気込み
ました。

 対空見張りの強化が、図られましたが、
哨戒中のB24を1機視認しただけ
でした。

 この間に、マニラの工作部が、熊野の
破損した煙突の残骸を除去し、機関の
整備が続けられました。垂れ下がった、
艦首の甲板も、一部切断され、応急的な
波除け板を取り付けられました。

 不足している機銃弾は、青葉から1万発ほど
譲ってもらいましたが、これでは30機ほどの
編隊に襲われれば、たちまち底をつくので、
心細い状況でした。

 左近允氏は、青葉から銃弾を受け取る時に、
青葉が所属していた16戦隊の司令官だった
自分の父の健在を確認しました。16戦隊は、
大破した青葉しかなく、解隊となっており、
内地に転任ということでした。

 この後、島風もマニラに来て、左近允氏は、
兄から父の健在を問われ、返事をしています。
この時、眼鏡で互いのことを確認し、白い
戦闘帽を振り合いました。

 連合艦隊長官から、青葉と熊野は、呉に
回航し修理に従事すべきという命令が
出されました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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