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巡洋艦熊野 志摩清英中将 [巡洋艦熊野]

 艦橋に入った左近允氏は、だいぶ
荒らされている中で、ジャイロコンパスが
健在なのはありがたいとしています。

 大型眼鏡の一つには、一発くらって、
幾枚ものレンズが粉々になっていました。
熊野が横付けしている日栄丸の反対側に、
巡洋艦那智が横付けされているのを発見
しました。

 巡洋艦那智は、レイテ沖海戦において、
第二遊撃部隊の旗艦となっていました。
左近允氏は、那智に、第二遊撃部隊の
志摩清英中将がいるのを発見しました。

 左近允氏は、志摩中将に、「御清武を祝す。」
という手旗信号を送らせました。この当時、
左近允氏は中尉で、中尉から中将あてに
信号を送るのは無茶というものです。しかし、
左近允氏の父親と、志摩中将は、親友同士
でした。

 左近允氏は、私信としてなら、問題ないと
考え信号を送りました。すると、志摩中将から、
「健在を祝し、奮闘を祈る。」という返事が
来ました。


 日が暮れてきましたが、日栄丸からの給油は
続いていました。左近允氏は、那智から
送られてきた信号文の、「鬼怒、浦波沈没。」
という字句が気になっていました。

 両艦は、第十六戦隊に所属しており、司令官が、
左近允氏の父親でした。

(追記)
 左近允氏の父親は、左近允 尚正
(さこんじょう なおまさ)中将です。

 インド洋でイギリスの商船「ビハール号」を
撃沈した際に捕虜80名を得たが、上級司令部の
「作戦中の俘虜は処分すべし」という命令によって
65名を殺害した事件がありました。

 最高責任者である南西方面艦隊司令長官の
高須四郎大将が既に病没していたので、
戦犯として逮捕され、イギリス軍により
植民地の香港のスタンレー監獄で絞首刑に
処されています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 コロン到着 [巡洋艦熊野]

 ウルガン湾に進路を変更して、熊野は、
7ノットで進んでいきました。すると、
左前方の水平線にマストが
見えてきました。

 見ると、駆逐艦と、妙高型の巡洋艦の
ようでした。さらに近づいてくると、
駆逐艦は霞、巡洋艦は足柄だと
分かりました。

 両艦とも、スリガオ海峡に突入した
第二遊撃部隊の所属であり、熊野を
救援に来てくれたようでした。

 霞には、木村昌福第一水雷戦隊司令官が
座乗しており、司令官から激励の信号が
送られてきました。

 人見艦長は、信号員に返信を命じました。
両艦は、熊野の左右に寄り添いました。
熊野は、再び行き先を変更し、当初の
予定通り、コロンに向かうことにしました。

 午後3時過ぎ、コロンの水道を無事に
抜ける事ができました。熊野は、コロンに
停泊していた油槽船日栄丸に横付け
しました。

 ここは、アメリカ軍の行動圏内でしたが、
島の西側は険しい断崖で、発見しにくく、
急降下爆撃も地形的にやり抜きそうでした。

 左近允氏は、艦橋を降り、艦内の様子を
確認しました。被弾した場所では、測距儀や、
高射器の中にあった遺体を運び出して
いました。遺体は、毛布に包まれて、
後部兵員浴室に安置されていきました。

 ガンルームは、機銃弾が飛び込んでおり、
至近弾の衝撃で、陶器の食器類は、
メチャメチャになっていました。
幸い、従兵たちは大抵の者が元気だと
いうことでした。

 艦橋に通じる薄暗い階段を登っていくと、
途中の白い隔壁に、重傷者のものと思われる、
どす黒い手形がはっきりと残っていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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