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巡洋艦最上 マレー半島 [巡洋艦最上]

 12月8日、曾禰氏は、洋上で開戦の報を
知りました。そして、既にマレー半島方面では、
予定の敵前上陸に成功、コタバル方面に進出
した陸軍部隊だけが、やや苦戦したとの報が、
伝わってきました。

 曾禰氏は、これでマレー半島方面のわが
艦隊の任務も、終わるはずと考えました。
このような情勢の下で、12月20日に、
始めてカムラン湾入港しました。

 この湾は、仏印東海岸きっての良港でした。
幅広い湾口を通じて外洋に接しており、
懐深く、水深も16m前後と適当で、
波が静か、背後にベトナム南北を結ぶ
主要幹線道路や鉄道が通っており、
内外の形勢からも、またとない
重要地点で、地政学的にみても
重要港湾というべきものでした。

 日本海軍も、早くからこの方面における
作戦根拠地の一つとして活用することに
着目し、湾内の掃海はもちろん、出入
航路を設定すると同時に、警泊に適する
ように、万事、手配していました。

 最上が入港した時には、すでにマレー部隊
旗艦の鳥海をはじめ、愛宕、金剛、その他
多数の艦艇が、入泊していましたが、湾が
広大なため、アチコチに点々として散在
しているように、見えるくらいでした。

 近く迎春ということで、カムラン湾に特設
されていた軍需支部の心づくしの迎春用品の
配給を受けて、艦内にも形ばかりの松飾りも
出来上がり、お正月のもちも用意されました。

 正月も近いとはいえ、平均気温は25度を
超えており、扇風機のかき回す風も、息苦しく
感じていました。

 それでも、乗員には、久しぶりに入浴させ、
少しでもこざっぱりした気持ちで、迎春
させようと、副長以下幹部は気を配って
いました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 開戦直前 [巡洋艦最上]

 曾禰氏は、近藤中将の訓示に、妙な気分を
味わいながら、参謀長から作戦一般と、展開、
開戦に至るまでの行動に関しての注意などを
説明され、出陣祝の祝盃があげられました。

 1941年11月20日、最上は、戦略展開地で
ある海南島の三亜に向け、こっそりと呉軍港を
出港しました。

 これが、内地の山々の見おさめという感傷など
つゆほどもなく、4隻編成で威風堂々と、しかし
誰の見送りもなく、静まりかえって粛々と出港
しました。

 航海の途中、第二開戦準備が発令されたので、
曾禰氏は、全艦に最後の準備作業を命じました。
開戦前でも、いつ会敵ということになるかわから
ないので、油断もスキもありませんでした。

 11月26日、無事に三亜港沖に到着し、
指定された掃海水道を通過して、午前11時に
入港しました。港内には、マレー作戦を担当する
わが部隊の大部分が集結していて、旗艦鳥海を
始め、数十隻の大小艦艇がいました。

 12月4日午前7時、第十位置駆逐隊を
直営として三亜を出撃した最上は、陸軍の
マレー部隊を護衛して、仏印沿岸沿いに
南下しました。

 途中、いくつかの船影を発見し、そのたびに
注意をはらい、時には臨検をして、企図の
秘匿に成功してシャム湾に入りました。

 ここにも、すでに多数の日本船が海面を
うめるようにひしめき合い、ときたま南洋
特有のスコールがあり、視界は不良でした。
しかし、それがかえって、艦隊の隠蔽には、
好都合でした。

 12月5日、天候が回復し、満月中天に
かかり、太白西方にかかるのをながめつつ、
全軍粛として声なく、南下を続けました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 第七戦隊 [巡洋艦最上]

 この当時の第七戦隊に所属する艦と艦長は
以下の通りです。

 一番艦熊野が旗艦で、田中菊松大佐、
二番艦鈴谷が、木村昌福大佐、
三番艦三隈が、崎山釈夫大佐
でした。

 最上は四番艦に指定されていました。
(本来の最上型の番号と、ぴったり逆に
なっているのが面白いと感じます)。

 着任後、しばらくは、瀬戸内海方面に
あって、諸訓練に従事しつつ、きたるべき
有事に備える事になりました。

 曾禰氏は、この訓練期間に、何はともあれ、
最上に馴染むことが一番大切なことと考えて、
厳しく訓練に従事しました。

 こうしているうちに、郵便物の検閲や、
当分の間私信を禁止する等々、ただならぬ
気配を感じとれる事態が起こりつつ
ありました。

 1941年11月17日、第2艦隊愛宕から、
「指揮官参集せよ。」という旗信号があり、
各隊司令官、司令、各艦長、先任参謀が、
続々と愛宕に参集しました。

 愛宕にいる司令長官の近藤信竹中将が、
「かねて覚悟はお互いにできているはずで
あるが、・・・」と前置きし、征戦に
のぞむに当たっての心構えについて、
緊張した口ぶりで、訓示を述べました。

 そして、「まもなく、展開命令も発令
されることであるから、その旨を心得よ。」
と、一同に伝えました。

 この瞬間、曽禰氏は、「しまった」
という一念で一杯だったとしています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 艦長公室の御製 [巡洋艦最上]

 曽禰氏は、前任の艦長である有賀大佐から、
必要な申し次つぎを受け、昼食をともにした後、
12時過ぎに、総員の見送りを受けつつ、次の
任地に赴任するために、退艦していきました。

 曽禰氏は、直ちに、総員集合を命じ、着任を
告げると同時に、時局重大なるおりから、さらに
任務に専念するようにと、訓示しました。この時、
最上には、「我新艦長着任せり。」の旗旒信号が、
掲げられていました。

 その後、曽禰氏は一休みした後、鎮守府、工廠、
軍需品、港務部や、各艦に着任の挨拶をするため
歴訪しました。公式儀礼行事が終わると、ひとり
静かに艦長公室に座って、正面をながめていました。

 正面には、江為守子爵(侍従を務めた方)謹書の
御製がありました。そこには、
「広き野を 流れ行けども 最上川 海に入るまで にごらざりけり」
と雄渾な筆跡で書かれた見事な扁額がありました。

 この扁額を、しげしげと見つめていた曽禰氏は、
これから先の重任に、いつか思い巡らして
いました。この当時、最上は、同型艦の、
三隈、鈴谷、熊野と一緒に、第七戦隊に
所属しており、司令官は、栗田健男少将
でした。

(追記)
 上記のように、新艦長が、訪問した時に、
相手が不在などで、直接来意を告げることが
できない場合は、名刺の右隅を少し折って、
直接、本人が訪問してきたことを示す
風習がありました。

 これは、前回紹介したサイドパイプ同様、
英国から伝わってきたもののようですが、
曽禰氏はなかなか奥ゆかしいと
感じていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 著者曽禰氏、艦長として着任 [巡洋艦最上]

 1941年9月14日、呉軍港に在泊
していた巡洋艦最上に、著者の
曽禰氏が艦長として着任しました。
生涯忘れられない日であったと、
しています。

 桟橋には、曽禰氏を迎えるための
内火艇が用意されており、新しい赤の
縁取りをした艦長用の敷物が、ひときわ
美しく敷かれていました。

 しつらえた席にどっかと腰を下ろし、
前方に艦長公式乗艇を示すペンデントが、
はためいているのをみました。

 艇を指揮する若い少尉は、今度の
新艦長は、どんな人だろうとひそかに
観察しているように見えました。
間もなく、内火艇は、最上の右舷に
ピタリと横付けされました。

 曽禰氏は、副長の福岡徳次郎中佐以下
乗員総員が威儀を正して出迎えるなかを、
一歩一歩舷梯を、静かに登っていきました。
登ると前任の艦長である有賀武夫大佐が、
ニコニコと出迎えておられました。

 曽禰氏は、最上に着任する前は、軽巡洋艦
長良の艦長をしていました。長良は5500tに
対し、最上は1万tもある巡洋艦であり、
どっしりとしていて、たのもしさが
一杯だと感じていました。

 曽禰氏は、衛兵礼式とサイドパイプ(儀式の
一種で兵曹の吹く号笛)、総員敬礼のうちに、
第一歩を最上上甲板にしるしました。
午前11時でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊最上 諸元 [巡洋艦最上]

 今回から、熊野同型艦にして一番艦である
巡洋艦最上について、同じ書籍に掲載されている、
“重巡最上出撃せよ
ミッドウェーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記”
から、活躍を紹介します。

 著者は、曾禰章氏で、最上の艦長を
務めていた方です。

 最初に巡洋艦最上の諸元をWikipediaから
抜粋してみます。

起工 1931年10月27日
進水 1934年3月14日
就役 1935年7月28日
最期 1944年10月25日 レイテ沖海戦で大破、雷撃処分
除籍 1944年12月20日
要目
排水量 基準:11,200トン(新造時)
    基準:12,200トン(1943年)
全長 200.6 m
最大幅 20.6m
吃水 6.9 m(新造時)
機関 ロ号艦本缶大型8基、同小型2基
艦本式タービン4基4軸
出力 154,226馬力(新造時公試成績、標準全力)
160,912馬力(全力公試)
速力 35.961 ノット (新造時公試成績)
36.486ノット(全力公試)
34.735ノット(1937年公試成績)
燃料 重油:2,280トン
航続距離 14ノットで8,000海里
乗員 竣工時定員944名
兵装
    竣工時
15.5センチ3連装砲塔5基15門
(1939年に20.3センチ連装砲塔5基10門と交換)
12.7センチ連装高角砲4基8門
61センチ3連装魚雷発射管4基12門
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
    1943年
20.3センチ連装砲塔3基6門
12.7センチ連装高角砲4基8門
61センチ3連装魚雷発射管4基12門
25mm3連装機銃10基
装甲 舷側:100mm 弾薬庫:140mm 甲板:35?60mm
搭載機 竣工時:3機(カタパルト2基)
1943年:11機(同2基)


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 内地の到着 [巡洋艦熊野]

 左近允氏が、お土産を揃えているところに、
青山中尉が赤い顔をして、メリヤスのシャツを
持ってきました。

 左近允氏が、「良い色をしていますね。」と
言うと、「航海士の分もありがたく頂戴
しました。」という返答が帰ってきました。

 そして、土産用の青山中尉が着ているシャツと、
砂糖の値段を教えてもらいました。左近允氏は、
早速買い込み、翌朝、買ったメリヤスのシャツを
着て、10斤の砂糖をぶら下げて、飛行場に
行きました。

 話を聞くと、次官室士官が泊まった
海軍クラブの方が、士官室士官が泊まった、
湘南閣より、待遇が良かったという
ことでした。


 台北を後にし、快適な飛行を続けました。
正午ごろ、沖縄に到着し、昼食休憩後、
福岡に向かいました。

 九州にさしかかると、天候が悪化し、
雲に入って窓の外が白一色となりました。
雲間から、阿蘇山や天草が見えると、
にぎやかになりました。

 12月4日、午後4時頃、左近允氏は、
5ヶ月ぶりに、内地の土を踏みました。
通関手続きを終え、呉に向かうために
博多駅から上り電車に乗りました。

 12月に夏服の左近允氏らは、乗客の
視線を浴びました。列車は一路、東へ
向かってきました。

(追記)
 最後に、熊野沈没時に生存者は639名
でした。しかし、左近允氏のように内地へ
帰国できた人を除き、大部分は陸戦隊として
残留し、494名が、フィリピンの山野で
散華しました。

 戦死者は、累計989名となり、熊野乗員の
ほぼ9割が戦死したことになります。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 台北到着 [巡洋艦熊野]

 左近允氏は、内地へ帰還する12月3日頃は、
敵機の襲撃が来る公算が大きいと感じて
いました。旅客機では、間違いなく
撃墜されそうでした。

 最近、武蔵の士官が乗っていたダグラス機が、
落とされたという話を聞いていました。飛行機に
乗ると、2基のエンジンが回転をはじめ、機体は
暁の空に舞い上がりました。

 ルソン西岸の上空、高度4000mを北上して
いきました。右下にサンタクルーズ、リンガエン湾が
見えていました。

 2時間半ほど飛行し、台湾の高雄に到着
しました。熊野は、この距離を1週間かけて
航海する予定で青葉ともに、マニラを
出港したのが、1ヶ月前でした。

 30分後、再び離陸し、台北に到着しました。
ここで一泊するということで外に出ると、寒さに
震えました。12月なので、街の人は、冬着
でした。しかし、左近允氏らは、薄いシャツと、
緑の略装でした。

 士官室士官は、湘南閣に、士官次室士官は、
海軍クラブに宿泊となりました。左近允氏は、
海軍クラブに行き、寝床に潜り込みました。

 昼食と夕食も出され、マニラの悪い食事とは
比較にならないくらいのご馳走でした。久しぶりの
畳の上で、床の間の生花をながめたり、ドテラを
着たり、故国の情緒を楽しいました。

 夕食後、お土産に羊羹やバナナをつめこんで、
動けなくなっているところに、青山中尉がやって
きました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 突然の知らせ [巡洋艦熊野]

 マニラの夕焼けは、世界一と言われるだけ
あって、さすがに美しく、眺めていると、
しばし戦争を忘れました。

 一度、ガンルーム士官3人で、メトロポリタン
劇場で、映画を観たりしました。マニラは物価が
高く、物価が高いと言われるシンガポールより、
高く感じていました。

 酒保で何十銭で買えるものが、円単位と
なっていました。主計科の士官が奔走し、
靴や靴下、タバコを渡されましたが、
前渡しの賞与から支払うと、いくばくも
残りませんでした。

 サンタクルーズから、遺体収容班が引き
揚げてきて、入れ替わりに、木原大尉や、
加茂川少尉他数名の作業員がマニラから
派遣された潜水夫を連れて、サンタ
クルーズに向かいました。

 熊野は、水深26mのところに沈没して
いるので、暗号書その他の機密文書類を
引き揚げるためでした。


 12月2日の夜、突然、明朝朝出発の
航空便があるので、士官約10名は、
準備するようにという知らせがきました。

 左近允氏は、すぐに水交社に向かいました。
航空機は、DC-3であるということでした。
そこに電話があり、がら空きの一式陸上
攻撃機を、臨時便として出すということ
でした。

 便はあっても、士官は、何人かは残る必要が
ありました。白石砲術長が、帰国組と残留組を
決めました。左近允氏は、帰国組となりました。

 12月3日未明、残留する士官に後事を託し、
全員の速やかな帰国を祈りながら、宿舎を
出ました。外はまだ暗く、水交社を出て
ニコルスフィールドに向かう途中で、
空が白みかけてきました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 司令部の思惑 [巡洋艦熊野]

 左近允氏らは、司令部の方針で、
便があり次第内地に帰還させる、
必要な士官は、席があれば
航空機に乗せるとなって
いました。

 しかし、司令部の本音は、陸戦隊として
取り込みたいという、ハラのようでした。
下士官の中で、それぞれの学校の
練習生課程を終えていない、いわゆる
無章の者は、回されるという話でした。

 若い士官も、陸戦隊の小隊長や中隊長を、
やらされるかもしれないという噂があり、
左近允氏は、河童の竹槍部隊は
御免こうむりたいと思いました。

 熊野の乗員がマニラに到着した11月30日に、
内地から来た空母隼鷹が、入港していました。
陸兵と軍需品をおろして内地に帰還するという
ことで、白石砲術長は、熊野乗員を乗せて
もらえるように司令部と交渉したものの、
実現しませんでした。

 陸戦隊に残すつもりなのか、もっと
防備のための作業に使いたいのか
わかりませんでしたが、
「明日はどこに100名、どこどこに200名。」
と割り当ててきました。

 左近允氏は、水交社でクラスメイトの
木曽乗員である土井中尉に会いました。
木曽は、11月13日の空襲で沈座
しましたが、大部分の機銃は、海面に
出ているので、毎日交代で出かけて
対空警戒にあたっているということ
でした。

 木曽はこれ以上沈むことはないので、
乗員は、直撃を受けない限り、戦闘を
続けなければなりませんでした。実際、
街は緊張した空気が漂っており、海岸
通りには、偽装した軍需品が、置かれて
いました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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