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巡洋艦最上 カムラン湾 [巡洋艦最上]

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 年末、最上から一人、病没が出ました。
遺体をそのままにして迎春もあるまいと、
湾の南奥にある、キャラット入江の海辺で
荼毘に付しました。

 カムラン湾にも、ついに最上の一兵員の
墓標が立ってしまいました。そして、
東方海上にのぼる太陽を拝みながら、
型通りの新年遥拝式が終わり、
簡単な祝盃を上げました。

 しかし、戦場には正月も盆もないというのが
実態でした。元日も、明るくなるのを待ち構えて
いたように、最上から哨戒機を飛ばして、哨戒が
はじまりました。そして、祝盃を上げている最中に、
ひっきりなしに敵情の入電がありました。

 曾禰氏は、新年遥拝式を終えると内火艇を
用意させ、旗艦熊野におもむいて、栗田司令官に、
新年の挨拶を述べた後、鈴谷、三隈を歴訪して
帰艦しました。


 38年前の日露戦争の当時、バルチック艦隊は、
このカムラン湾で、最後の補給休養をとり、ロジェスト
ウェンスキー提督が、最後の決断をした地でした。

 この地が、日本海軍の基地として舞台の表面に
躍り出たのは、因縁浅からざるものがあると感じた
としています。

 さらに、後にベトナム戦争で、アメリカ軍は、
この地に一大補給基地を建設しています。
カムラン湾は、歴史的にみてもそれぞれの
時代に応じ、道化的舞台となり、主役を
演じているように見えたとしています。

(追記)
 上記で、曾禰氏が、鈴谷に赴くと、
木村艦長は、書き初め用の大きな紙を
用意していて、赤い毛布が敷かれて
いたのが印象に残ったとしています。

 三熊の崎山艦長は、部下とゆっくり
囲碁を楽しんでおり、いずれも、戦場
くささを微塵も感じなかった、暗い
お正月を楽しんでいたとしています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平


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