SSブログ

雪風、回天の標的艦を勤める [雪風]

 雪風は、呉に戻り正月をここで過ごしています。第十七駆逐隊は、
特攻兵器回天の襲撃訓練をの目標を勤めるため、徳島の南の
大津島に移動しました。回天は、一人乗りの魚雷であり、突入
爆発は、即搭乗員の死につながる兵器です。

 これも、戦争という状態を考慮しても許される兵器とはいえません。
使用者が、100%死ぬことが確実なものは、兵器として採用しては
ならないものだと考えます。考案者も採用した人も、人間なのかと
疑いたくなります。

 3月15日まで標的役を勤めています。田口砲術長(1945年2月
1日に航海長から砲術長になっています)は、やりがいはないと
感じていたものの、回天に乗っている隊員のことを思うと、身が
引き締まると手記に記しています。

 田口砲術長が、就任するときに寺内艦長から、“心構えは航海長の
時と何ら変わらない。訓練は戦闘中のごとく、戦闘中は訓練のごとく」
という言葉をもらっています。これは、現在でもそのまま使える教訓です。

 3月19日に、呉軍港が空襲されています。この時、雪風は艦の前後を
ブイで係留したまま対空戦闘を行っています。敵軍の目標は大型艦で、
航空戦艦の日向、戦艦榛名、空母葛城、巡洋艦大淀、利根などです。
ただ、雪風にも襲いかかってきました。

 この時、雪風は主砲と機関銃を合わせて1万5千発の砲撃を行っており、
敵機を3機撃墜した上に、無傷で切り抜けています。田口砲術長は、雪風
での砲撃は初めてですが、艦長の教え通り行動しています。一方で、国民
を守る軍人が、国民の前で戦闘したことに申し訳なさを感じていました。

(追記)
 雪風と並ぶ幸運艦時雨ですが、レイテ沖海戦で奇跡の生還を果たした後、
マニラ沖で潜水艦撃沈の戦果を挙げましたが、1945年の1月24日に、
マレー沖で船団護衛中に、潜水艦の雷撃を受け沈没しています。

信濃沈没 [雪風]

 信濃の機関停止後、阿部艦長は駆逐艦で信濃を曳航するという
案が出されています。比叡の時は案は出たものの実施はされま
せんでしたが、今回は実施しています。曳航するのは、磯風と
浜風で、雪風は警戒に当たることになりました。

 雪風が警戒に選ばれたのは、レーダーが使える状態だったからと
思われます。磯風と浜風も装備はしていましたが、レイテ沖海戦で
破損しており、使用できませんでした。

 2隻の駆逐艦の馬力の合計は、10万4千馬力、信濃は15万馬力で
動かしており、曳航してもほとんど動きませんでした。それどころか、
切れたワイヤーにはねられて死亡する人が出る状態でした。

 そうこうしているうちに信濃の傾斜が激しくなり、曳航している浜風も
一蓮托生になる危険が出てきました。ついに曳航を断念し総員退去と
なりました。

 信濃が沈んだ後は、救助活動に忙しくなっています。この救助活動中
敵軍に襲われなかったのは、運が良いと言えます。救助後、呉に向かい、
予定より早く11月30日の午後1時に到着しています。

 救助活動において、寺内艦長は、海の落ちても平然としているものから
助けよという命令を出しています。信濃には、呉で工事を続行する関係上
工廠の行員も乗っており、撃沈されるという経験をしていない人も多数いま
した。この人たちは、海の上で助けてくれと喚いていましたが、歴戦の寺内
艦長から見ると、平然としている人の方が使えると見ていたようです。

(追記)
 信濃の乗組員は、呉に着いた後、機密保持のため三ツ子島の
病舎に隔離され、伝染病患者扱いかと憤っていました。ところが、
ここに、戦艦武蔵と、空母瑞鶴の生き残った乗組員が壁に書いた
メッセージ、“くじけるな。我らは再び戦場に行く」をみて、機密保持
のため危険な前線に飛ばされた事を知り、黙ってしまいました。

 この人達が、この後どうなったかは調べる気にもなりません。
戦争では、危険を承知で作戦を遂行しなければならないことも
あり、囮として使うといった作戦も、時には必要なことがあります。

 しかし、司令部の指示や命令の中には、戦争中だからという
理由をつけても、許されざる行為をおこなっているものがあり、
これもその一つと言えます。

 激戦から生き残った人達を機密保持(アメリカ軍は自分たちの
戦果は分かっているので、全く無意味です。これは、国内向けの
機密保持です)のための隔離した挙句、激戦地戦地に送る(機密
保持のために殺害しようとした)としたという行為には、怒りを
覚えます。

信濃雷撃される [雪風]

 寺内艦長が夜間の移動に反対したのは、潜水艦は肉眼で
発見するしか方法がないので危険だという考えです。信濃の
阿部艦長は、飛行機の護衛がないので、昼間移動だと機動
部隊の攻撃を食うという主張をしています。

 寺内艦長は、世界最大の空母の護衛に直衛機を付けない
ということに唖然としましたが、歴戦の駆逐艦艦長は、空襲なら
護衛する自信はあると考えていました。しかし、阿部艦長は方針
を決めており、夜間航行で決まっていました。

 11月28日に出港し、午後9時頃雪風のレーダーが後方を
追尾する船を発見し、反転して調査していますが漁船と報告
しています。作者の豊田穣氏は、戦後信濃を追尾していた
潜水艦艦長にインタビューしてこの当時のことを確認して
いますが、この時、雪風のレーダーに映ったのは、この
潜水艦だったようです。

 この点から、雪風の護衛に問題があったという意見もありますが、
手記を書いている田口航海長は、当直交代時に、「潜水艦らしき
ものが出たが、潜行したようでよくわからない。駆逐艦を派遣して
制圧したほうが良い」という報告を聞いています。雪風は潜水艦が
ついてきていること可能性があることは認識していました。

 信濃の阿部艦長は、潜水艦1隻なら振り切れば良いという考え
だったので、駆逐艦で制圧をさせるという命令は出さずに、雪風
に信濃の護衛に戻るように命令しています。このとき、潜水艦は
浮上して、之字運動(ジグザグ航行)をする信濃に最短ルートを
走って接近していたようです。

 11月29日の午前3時17分に、潜水艦の雷撃を受け4本の
魚雷が命中しています。信濃は、大和型戦艦として作られて
いた艦なので、本来なら魚雷4本で沈むことはないのですが、
完成を急ぐあまり防水区画の機密が不十分でした。

 夜明け頃には機関が停止し、信濃の運命は決まりました。

(追記)
 今回一緒にいる陽炎型駆逐艦13番艦浜風ですが、艦これにも登録
されている艦です。武蔵、金剛、信濃と大型感の沈没に立会い、乗組員
を救助するという経験をしています。武勲とは違いますが、それに匹敵
する実績と言えます。

雪風、空母信濃の護衛 [雪風]

 11月23日に帰投し、直後長門の護衛を命じられ横須賀に
向かっています。呉で休暇ができると思っていた雪風の乗組
員はがっかりしています。しかも、横須賀に着いた後、空母
信濃を呉まで護衛するという大変な任務を仰せつかりました。

 信濃は、大和型戦艦の3番艦として建造される予定でしたが、
空母に改造され、全長266mを誇るこの当時では、世界最大の
空母となっています。しかし、東京湾での訓練は、東京空襲が
現実になっている今の段階では危険と判断され、瀬戸内海への
回航は必須と思われていました。

 丁度、長門を護衛して、雪風、磯風、浜風がきたので、護衛しろ
ということです。横須賀にほとんど上陸できなかったものの、呉に
行けることは確実なので気楽に構えていました。歴戦の余裕が
感じられます。

 一方、信濃の阿部艦長は、司令部からの就航時刻や進路は
艦長が決めろという命令に悩んでいました。この阿部艦長は、
戦艦比叡沈没時に、乗艦していた阿部司令官の実弟であり、
兄と同じ悲劇を味わわないかという心配をしていました。

 11月27日に、阿部艦長は信濃の艦橋に、各駆逐艦の
艦長を呼び、夕刻に出撃して夜の間に潜水艦のいる海域
を抜け、朝には和歌山県の潮岬(しおのみさき)に到達する
ようにしたいという意向を示しています。

 雪風の寺内艦長は、この方針に反対を唱えています。

(追記)
 以前、知り合いから、日本海軍の艦の中で一番運が低い
艦はなんだと思うかと問われた時、真っ先に出てきたのが
空母の信濃でした。

 現時点でも、私の中では認識は変わっておらず、信濃が、
艦これに実装された時は、現時点で運の値が一番低い大鳳
より低くなる可能性があります。

雪風、ブルネイ帰投後の悲劇 [雪風]

 レイテ沖海戦が終わり、雪風はブルネイに帰投して
いました。ブルネイ停泊中の11月16日にアメリカ軍
の空襲を受けています。

 大和の三式弾が敵の1番機を撃墜したため、隊列が
乱れて被害は少なかったといえます。しかし、この空襲
で、雪風は、1名の戦死者を出しています。

 この日、駆逐艦指令が着任しました。当初、雪風に
乗艦する予定でしたが、戦死者の水葬を行うため、
出港予定が遅れる可能性があり、駆逐艦浦風に
乗艦しました。

 午後6時30分に雪風も予定通り、大和、長門、金剛の
戦艦部隊を直衛するために出航しています。

 11月21日の午前2時56分ごろ、アメリカの潜水艦の
雷撃を受け金剛に2発、浦風に1発の魚雷が命中しま
した。この攻撃で、浦風は轟沈し、駆逐艦指令を含め
全員戦死しました。雪風は、浦風の後ろに位置して
いましたが、何も被害を受けていません。

 金剛は、2発の魚雷で沈むとは考えておらず、潜水艦を
振り切るために16ノット以上の速力を出したことが逆に
仇となり、波の打撃で浸水を促し、傾斜が激しくなり、
沈没しています。

 金剛の乗組員は、浜風と磯風があたり、雪風は警戒に
あたっています。雪風は、金剛型戦艦の比叡に続き、
1番艦の金剛も護衛中に撃沈されるという悲劇を
味わっています。

(追記)
 運が低い重巡洋艦姉妹として艦これに登録されている、最上型
巡洋艦ですが、4隻ともこの時期までに撃沈しています。

1番艦最上:レイテ沖海戦で、適砲撃が艦橋を直撃、その後重巡洋艦
       那智に衝突され、全力で退避したものの、空襲で火災を生じ、
       航行不能になり、曙の雷撃で処分されています。

2番艦三隈:ミッドウェー海戦で、最上と衝突後空襲を受け沈没。

3番艦鈴谷:雪風と同じ栗田艦隊に所属しレイテ沖海戦に参加。至近弾の
       影響で艦内に火災が生じ、魚雷などが誘爆して轟沈。
       被災したところは、雪風の乗組員が目撃しています。

4番艦熊野:鈴谷と一緒にレイテ沖海鮮に参加。艦首を砲撃で失い退避し
       マニラに逃げ込み、本格修理のため台湾に向かう途中で
       潜水艦の襲撃を受け、サンタクルーズ港に逃げ込むも、
       猛烈な空襲で撃沈。
       レイテ沖海戦から1ヶ月後のことです。

 話題が多い最上以外は、運が低いのも納得しそうな戦歴です。

雪風、不本な退却命令 [雪風]

 午前9時35分、艦隊司令の栗田長官から集合せよの
命令が出ています。アメリカ軍は退避しつつあり、これ
以上の追撃しても無駄という判断でしたが、雪風の
寺内艦長を始め各艦の艦長は不満でした。

 寺内艦長は本艦だけでも敵空母に雷撃をするぞと
息巻いていましたが、巡洋艦筑摩の救援を命じられ、
途中から救援は野分に変えて本体に合流せよとの
命令を受けたため、しぶしぶ従っています。なお、
筑摩と野分はこの後の攻撃で撃沈されています。

 集合後、進撃を始めましたが、午後12時26分に
戦後も論争になっている栗田艦隊の反転があり、
レイテ進入を諦めています。戦後、著者の豊田穣氏が
栗田司令官に直接インタビューし、退却したという意見を
述べています。

 この反転後、航空機257機の空襲を受け、大和が2発被弾、
軽巡洋艦能代が沈没の被害を受けています。一方で、雪風は、
無被害でこの海戦を切り抜けた上に、戦果も上げています。

 この海戦で、雪風が無傷だったのは、寺内館長の操艦により
ます。寺内艦長は、天蓋のハッチから頭を出して、爆弾が投下
された瞬間に命令し、田口航海長が操艦するという手順で行っ
ています。

 空襲がたけなわになると、艦長の声が聞こえないので、寺内
艦長は、右に回避するときは、田口航海長の右肩を蹴るという
方法で伝えており、意思の疎通が図れていました。

 さらにこれらの回避を可能にしていたのは、機関員とのすり
合わせがよくできていたこともあげられます。激戦をくぐり抜け
てきた雪風の乗組員は、練度も、艦内のコミュニケーションも
相当に高かったと言えます。

(追記)
 雪風は、無被害、戦死者ゼロの上、駆逐艦撃沈という戦果を
上げており、これだけなら大勝利と錯覚しそうですが、レイテ沖
海戦は、大敗北と言える海戦です。

 戦艦は、武蔵、扶桑、山城の3隻が撃沈、空母も、瑞鶴、瑞鳳、
千歳、千歳が撃沈しています。この後、大規模な艦隊を組むことは
できなくなっており、事実上日本海軍は壊滅したといえます。

雪風、空母を雷撃 [雪風]

 午前8時5分に全軍突撃の命令があり、雪風が所属する
十七駆逐隊も張り切って突撃することになりました。雪風は、
十七駆逐隊の最後尾にいましたが、寺内艦長は、罐(ボイラー)
が割れるまで炊いてくれと命令し、機関長も任せてくださいと
返事しています。雪風内は、にわかに活気付いていました。

 アメリカ軍も、空母を守るため、煙幕をはり果敢に挑んできて
いました。雪風も、空母を狙いたいところでしたが、駆逐艦が
邪魔になり、こちらに攻撃を仕掛けています。雪風は、大和の
副砲と挟撃することで、沈没させています。

 水雷戦隊の木村指令官は、軽巡洋艦矢矧(やはぎ)から、
十七駆逐隊の4隻+矢矧で、一斉に雷撃すれば、40本の
魚雷になり、空母は飛行機の発着を行っているので急展開
は不可能と判断し、20kmでも当たると思っていました。

 発射直前に、敵駆逐艦に邪魔され撃つ機会を逃しましたが、
矢矧が13kmまで近づいて雷撃し、十七駆逐隊もさらに近づ
いて雷撃しています。雪風は、他の駆逐艦が発射したタイミングで
発射できず、やり直して10kmまで近づいて雷撃しています。

 この雷撃で空母を撃沈と記録されています。しかし、アメリカの
資料では、雷撃の戦果はなかったとなっています。雪風の乗組員は、
図面と正確な時刻などを記録しており、日米の記録に差があります。
雪風の乗組員は空母を沈めたと確認しており、気分は高揚していま
した。

(追記)
 サマール沖海戦で沈んだアメリカの空母は、ガンビア・ベイだけで
あり、この空母に最も砲弾を命中させていたのは、巡洋艦の利根と
羽黒です。ガンビア・ベイは、日米開戦において、唯一砲撃で沈んだ
空母として記録されています。

 雪風が雷撃した空母が何で、なぜ雷撃後見えなくなったのかは
不明という状況です。

サマール沖海戦 [雪風]

 10月25日、レイテ湾に索敵しながら進んでいました。
午前6時40分、大和や鳥海が敵機を発見し、雪風内に
緊張が走りました。

 ところがこの5分後、船のマストを発見しこれが空母のもの
と分かり一同驚きながら、千載一遇のチャンスとばかりに
砲撃戦を開始しました。空母が、戦艦の射程内に入ると
いうのは、この時期では考えられない珍事です。後に、
サマール沖海戦といわれる海戦が始まりました。

 午前6時59分、大和が距離32kmで46cm砲を砲撃しました。
大和が主砲を発射したのはこれが初めてです。7時2分に、敵の
陣容が空母6隻であることが分かり、昨日武蔵を沈めた機動部隊
と判断しました。

 大和の砲撃に続き、長門、榛名、金剛の順で発砲を開始しました。
7時3分、艦隊司令の栗田長官は戦艦と巡洋艦に突撃せよの命令を
下しています。敵は、空母と駆逐艦の部隊なので、空襲による反撃に
備えて、射程の長い戦艦と巡洋艦の主砲で制圧使用と考えていました。

 雪風では、寺内艦長も乗組員も撃ち合いを始めたいとウズウズしていま
したが、敵との距離は5kmもあり、艦隊への発砲はおあずけを食っていま
した。ウズウズしている間に、午前7時10分頃敵機が10機ほど襲い掛か
ってきました。

 艦隊への発砲はおあずけを食っていた寺内艦長も頭にきたらしく、直ちに
対空戦闘を命じました。乗組員もこの野郎とばかりに撃ちまくっていました。
雪風が、艦隊に砲撃できたのは、さらに移動してからでした。

(追記)
 このとき発見したのは、機動部隊ではなくレイテ湾口をまもる護衛
空母部隊です。機動部隊は、日本の機動部隊と戦闘するべく前日の
夕刻から北方に向かっており、護衛空母部隊は日本軍の位置を
把握していませんでした。

 さらに、前夜に第一遊撃隊支隊(扶桑、山城など)に備えていた
疲れもあり、情報もないままこの地にいたということです。

武蔵沈没 [雪風]

 幸先の悪いスタートでしたが、進撃を続けていました。
翌日の10月24日の早朝に、敵機を発見し、艦隊を
輪陣形にして警戒に当たりました。

 この時は、旗艦大和を中心とした第一部隊と、第一部隊の
後方12kmのところに金剛を中心にした第二部隊に分かれて
おり、雪風は第二部隊の右側に、野分(のわき)、清霜と一緒に
護衛していました。第十七駆逐隊の他の駆逐艦は左側を護衛
しています。

 敵機は、最初第一部隊に襲い掛かりました。この時、武蔵と
妙高が攻撃を受け妙高が旗艦を勤めていた第五戦隊は、羽黒
に旗艦を変更し、妙高は帰投となりました。一方で、第二部隊は
襲われなかったので、寺内艦長は、手持ち無沙汰となっていま
した。

 その後、潜望鏡を発見という報告に、対潜行動をとりながら、
空襲に警戒していました。なお、戦後この海域には潜水艦は
いなかったことが分かり、幻の潜水艦警戒中に空襲を受けると
いう状況になりました。

 この後、4回の空襲があり雪風も応戦しています。この空襲は、
武蔵に殺到しており、この時雪風と清霜は武蔵の警戒にあたっ
ています。この後、武蔵はこの日の午後7時35分に沈没して
います。この海戦がシブヤン海の戦いといわれています。

 この後も、大和を旗艦として、何回か反転を繰り返しながら
レイテを目指して進撃しています。

(追記)
 第一遊撃隊本隊が空襲を受けてた日の夜に、第一遊撃隊支隊
(扶桑、山城など)は、スリガオ海峡で戦闘をしていました。こちらは
小部隊ということもあり、予定通り進撃していました。

 第一遊撃隊本隊は空襲を受けていたので、予定から遅れており、
その旨は伝わっていましたが、西村司令官は、最後までレイテ湾
突入を果たすべく、敵艦隊と砲撃戦を繰り広げていました。

 しかし、第一遊撃隊支隊は、砲撃と雷撃を浴び次次に沈没していき
ました。さらに、重巡洋艦最上と、遅れて到着した第二遊撃隊の
重巡洋艦那智が衝突し、最上はその後の空襲で被害が拡大
したことで放棄され、駆逐艦曙に処分されています。

 第一遊撃隊支隊に所属していた艦の中で唯一生き残ったのは
雪風と並ぶ幸運艦の時雨のみとなり、この部隊は撤退となりま
した。

雪風、パラワン水道に進撃 [雪風]

 雪風は、海戦を前に主力のターボ発電機の歯車が欠損して
使用不能になるトラブルに見舞われています。またしても、
大和の工房に頼んで歯車を制作するという応急処置を
したものの直らず、出力の小さいディーゼル発電機で
対応するよりなくなりました。

 寺内艦長は、「わしが乗っている限り船は沈まん。安心して
やってくれ」と発言しており、乗組員も寺内艦長の指揮なら
活躍できるという自信がありました。この当時、「呉の雪風、
佐世保の時雨」という日本海軍の幸運艦としての名は
広まっており、自信の裏付けはありました。

 10月22日に、第一遊撃隊支隊(扶桑、山城など)がスリガオ
海峡方面に出撃し、引き続いて雪風が所属する第一遊撃隊
主隊も出撃しています。

 翌日の10月23日6時頃に、パラワン島西側で、潜水艦の
攻撃を受け旗艦の重巡洋艦愛宕が雷撃を受け沈没、続いて
後続する重巡洋艦高雄が雷撃され大破し脱落、さらに
重巡洋艦摩耶も攻撃を受け沈没となっています。

 1時間で3隻の重巡洋艦がやられることになりました。旗艦は
大和に移されることになり、そのまま進撃しています。旗艦を
真っ先に失うという状況に、雪風内でも不吉な予感が掠めて
いました。

(追記)
 愛宕は、艦これでも存在感を放っている重巡洋艦で、
高雄型2番艦として建造されています。ロンドン海軍
軍縮条約の規制を満たしながら、限界への挑戦を
した妙高型にさらに指揮機能を備えるため大型
艦橋を備えていました。

 今回、大和や武蔵を差し置いて旗艦に選ばれている
ことからも、優秀な指揮能力を持っていたことが伺えます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。