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巡洋艦大淀 初の試み [巡洋艦大淀]

 これまで、14歳8ヶ月以上のものは、 水中測的兵、電信兵、乙種飛行予科 練習兵などに採用されていました。  今回は、水兵科、整備科、機関科、 主計、看護、工作といった兵科でも 採用されていました。しかも、同一 年齢の少年ばかりが集められたのは、 この特年兵制度が初の試みでした。  ただ、小淵氏は、そのような事情は 全く知らず、まわりの者は、3~4歳年上 だろうと勝手に想像していました。  特に名前頭は、立派な体格で、徴兵 年齢に近いのではないかと見ていました。 しかし、15再9ヶ月未満で、それ以上の ものは、一人もいませんでした(手違いで 入ってしまった人がいましたが、すぐに 一般志願兵に回されています)。  入団して数日は、故郷のことを思い 浮かべるゆとりもないまま、すべてが 夢の出来事の如くあっという間に 過ぎていきました。  特に、新しくできた海兵団なので、 雑草が生い茂り、草むしりや、残材の 片付けに駆り出されました。入団3日目 から始められたこれらの作業は、以後 毎日に続けられ、日課のようになって いました。  黄色の腕章をつけた当直班長が、 次々と指示するので、休む暇もありません でした。  ある日、小淵氏が、背丈より高い草を むしっていると、赤いカニが出てきました。 山奥で育った小淵氏は、こんなカニは見た ことがなく、珍しがってみていました。当然、 雷が落とされることになります。  1400人もの練習兵が、何日もかけて 作業したことで、団内も見違えるように 整理されました。しかし、団内からは、 「俺達は、土方を志願したのではないぞ。」と、 影で文句を言っていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 悪夢からの解放 [巡洋艦大淀]

 食事は、教卓に10数人がついて、忙しく すませました。食事だけでなく、軍隊は 本当に忙しいところで、次から次に種々 雑多なことが命令され、1分といえども ぼんやりしていられませんでした。  何も彼もが、無我夢中で入団一日目は 暮れていきました。小淵氏は、新しい吊床の 中にもぐりこみ、眠ろうとしましたが、胸が 圧迫されるようで、容易に寝付けません でした。翌日、東京、神奈川、埼玉の 入団者がやってきて、兵舎が一杯に なりました。  小淵氏の所属した第11分隊は、総員220名で、 13の教班に別れました。1個教班は、17名ずつで その中で一番背が高い者を、名前頭と呼び、 一番低い者を名前尻と呼びました。小淵氏は、 名前尻から3番目でした。  9月1日、入団者が揃うと、血沈検査、レントゲン、 尿の検査など、種々の検査を受け、その結果 何人かが帰されました。その人達は、病気にでも なっていたと判断しました。小淵氏は帰されることは なく、即日帰郷の悪夢からやっと解放されました。  制式採用になった者は、各種の予防注射が 行われ、腕や背中に太い注射を何本も打たれ ました。中でも、3種混合ワクチンの注射は、 だいぶこたえ、全員に休養が命じられました。  海兵団生活の第一歩を踏み出した小淵氏らは、 始めのうちは、特年兵と呼ばれていましたが、 半月ばかりして「海軍第一期練習兵」という 正式名称が付けられました。第一期練習生は、 満14歳8ヶ月以上、15歳9ヶ月未満の少年 ばかりでした。  海軍第一期練習兵は、横須賀、呉、佐世保、 舞鶴の各鎮守府で合計3700余名ということで、 横須賀には、1400余名でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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