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巡洋艦大淀 笑い方を練習 [巡洋艦大淀]

 流行性脳脊髄膜炎がはやったことで、 兵舎の中で、分隊長や、分隊士の訓話が あるだけで休養となりました。親しい戦友を 次々に失った小淵氏らは、すっかりしょげて いました。  その様子を見ていた分隊士は、全員を 中庭に連れ出し、何を思ったのか、「これから 笑い方を練習する。」と言って、腰に手を 当てて、大声で笑い始めました。  それに和して全員大声でやり始めると、 次第におかしさがこみ上げ、しまいには みんな腹を抱えて笑い出しました。  笑いだしたらそれが、中々止まりません でした。あまり笑いすぎて、しまいには 涙がこぼれてきました。  やがて1週間ばかり過ぎ、その後は 発病者もなく、隔離は解かれ、再び 正規の課業が始められました。しかし、 体力の消耗は避けるようにということで、 早朝に行っていた銃剣術の寒稽古は、 取りやめになりました。  海兵団の冬は、練習兵にとってきつい ものでした。ここは、温暖な三浦半島ですが、 かなり多くの者が、手足に凍傷を起こして いました。年少者なので、凍傷にかかり やすかったのかも知れませんでした。  海兵団生活は、あらゆることが、時間割と なっており、天気がいいから洗濯するという わけには、いきませんでした。そのため、 風花の舞う日であっても洗濯があり、洗った 衣服などもバリバリと凍りついて、それを かじかんだ手でやっと乾かす始末でした。 こんな時、凍傷にかかりました。  辛い冬がやがて去り、温かい日差しが 日一日と延び始めました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 流行性脳脊髄膜炎 [巡洋艦大淀]

 外出した練習兵は、育ち盛りの空腹を 満たすべく、そばや焼き芋などを腹いっぱい つめて、元気に戻ってきました。  今は、故郷のことを忘れてしまったかの ように、海兵団での生活を楽しむように なっていました。  外出から戻ると夕食になり、その後軍歌 演習がありました。練兵場の指揮台に 陣取った軍楽隊を中心にして輪を作り、 左手に軍歌帳を差し上げて、足踏み しながら声を張り上げて歌いました。  この軍歌演習では、軍歌に唱われている 祖先や先輩の偉大な業績を、おのが心にと、 またそれに強い憧れを抱きつつ、心をこめて 歌いました。  戦闘という人間極限の能力を発揮すべき時、 「自分たちもそうでありたい。」と誰しも願って 歌いました。  「最強の軍人精神」「最強の身体」「最秀の技能」。 海兵団教育の三大要素と言われるこれらを 目指して、教育された練習兵は、やがて死を 恐れない兵にと育ちつつありました。  第三海兵団に移転して間もなく、練習兵分隊に 恐ろしい病気が流行しました。それは、流行性 脳脊髄膜炎で、11分隊からも5名の犠牲者が 出ました。  13分隊にいた小淵氏の同郷の者も、かかって しまい死亡しました。相撲大会や陸上競技で 鳴らしていた体格も優れ、体力も抜群でした。 しかし、流行性脳脊髄膜炎には勝てません でした。  この病気は、疾風のように襲ってきて、 10数名の少年の命を奪っていきました。 病人の出た分隊は隔離され、居住区の 消毒が行われました。訓練も中止となり、 普通学も取りやめになりました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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