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巡洋艦大淀 使命感 [巡洋艦大淀]

 郷愁がつのってくる頃から、教育も次第に 厳しさを増し、気合がこもってきました。  「動作が鈍い。そんなことで艦船勤務が やれると思っているのか。」と、何回も吊り 直しをさせられた吊床の中で、忍び泣きが 漏れていました。  特に特年兵は、14歳、15歳の少年なので、 尚更でした。想ってもみなかった厳しい教育に、 多くの者が、海軍に志願してきたことを、後悔 し始めていました。そして、帰してもらえるもの なら・・・と願いました。  練習兵の一人が、体の不調を理由に、 「私には海軍は務まりそうもありませんから・・・」と 分隊士に申し出ましたが、入団時に精密な身体 検査をして、どこも悪くない判定されていたので、 申し出が受け入れられるはずはありませんでした。  軍隊は、自分の恣意で帰ることは絶対に できないことは、誰もが承知していること でしたが、帰れない所であると知れば知るほど 望郷の想いはつのりました。  夜ごと、吊床の中の忍び泣きは続き、 一人の嗚咽が発端となって、伝染して いきました。誰もが、寂しさに耐え切れなく なっていました。  ある夜「眠いものは眠ってしまってよい。 起きているものは、そのまま聞け。」という、 力強い声が響いてきました。新兵がどの ようにやっていけばよいか説いてきました。  それから、毎夜のように、吊床の吊ってある 梁の上から、その特訓は続きました。それを 静かに聞いている練習兵は、時として琴線に 触れ声をあげて泣きました。  しかし、それは、寂しさや、軍隊のつらさから ではなく、「何が何でもやり抜かなければならない。」 という使命感からでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 郷愁がつのる [巡洋艦大淀]

 練習兵制度の最大の特徴は、普通学の教育が、 半分をしめていたことでした。主として午前中が、 普通学の授業に当てられ、午後は、一般志願兵と 同様な軍事教練や、軍事学になっていました。  練習兵一個分隊の構成は、220名で、それが 13の教班に分かれ、その教班は、下士官の 中から、選り抜かれた教班長が、指導に 当たりました。  小淵氏が所属する第11分隊の第4教班長は、 砲術学校の高等科出身の鈴木武上等兵曹で、 教班長の上の分隊士が、泉富雄予備学生と、 庄司勤助兵曹長の二人がおり、分隊長は、 清水芳人大尉でした。  練習兵の教育主任は、尾崎俊春中佐が 担当しました。この方は、練習兵制度を 提案し、情熱の限りを尽くして推進して きたと、聞かされました。  練習兵制度の最終目的は、兵学校出の 士官に欠けている各分野の熟練度を補う 士官の養成で、10数年後を目処にした ものであるということでした。  その第一期兵として入団した練習兵は、 あらゆる面で、心身の鍛錬に力が注がれ ました。  午前中の普通学が終わると、手ぐすね引いて 待ち構えていた教班長による訓練が始められ ました。不動の姿勢から始まって、徒手訓練、 銃を持って行われる執銃訓練が始まめられる 頃には、風光明媚な武山海兵団にも秋風が たってきました。  日あしは次第に短くなり、郷愁がつのって きました。海軍に入れたという歓びで一杯で あった胸中にも、生家を離れて1ヶ月も経つと、 物悲しさが、いつしか忍び込んできました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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