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巡洋艦大淀 横須賀海軍砲術学校 [巡洋艦大淀]

 団門を離れると、砂利道の砂塵をまき上げて 突っ走って行きました。この道は、入団する時、 汗を拭きながら歩いてきた道でした。あの日の ように、今日もよく晴れていました。  道路の両側は、青葉が覆いかぶさるように せり出し、その枝に葛の葉がふさふさと、 まつわりついていました。トンネルを2つ 通過すると、まもなく横須賀市内に 入りました。  鎮守府、横一団、海軍病院等の並んでいる 通りを進んでいくと、そこにもトンネルが ありました。  これが、横砲校のトンネルで、「軍規風紀の風が 吹く」といわれていました。そこを吹く風は、肌の 熱をサッと吹き払ってくれました。  トンネルを抜けると桜並木の道路沿いに校舎が 立ち並んでいました。横須賀海軍砲術学校の中庭に 集合した小淵氏達は、班長に案内されて校舎に 入りました。  小淵氏が所属する測的術幹部班の居住区は、 二階になっており、測的班が片側の居住区を 使用していました。総員は120名で、1班24人の 5班に分かれました。小淵氏は5班となりました。  一班は右舷と左舷に分けられました。このため、 外出は半舷性がとられ、隔週の日曜日ごとにしか 外出がすることができませんでした。  特第一期測的術幹部班練習兵は、横須賀、 佐世保、舞鶴の各鎮守府から練習兵出身者 ばかりが集められたので、いずれも年齢・階級 ともに同じで、今まで受けてきた教育も同じもの ばかりでした。  それでも、入団当初のような戸惑いが生じました。 それは、出身県による言葉使いやなまり、気風が 異なっていたからでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 海兵団卒業 [巡洋艦大淀]

 7月半ばになり、普通学の試験がどっと 始まりました。教育期間が短縮されてからは、 猛スピードの講義でしたので、試験に自信を 持っている者は少ないというのが現実でした。  そのためか、巡検後、吊床の中で勉強 している者がかなりいました。外出時に購入 した豆電灯を使って、隠れて勉強でした。  これは、練習兵全員が、術科学校に入校 できるという話があった時、各教班長から 言われた言葉が影響しています。  「術科学校は、今までのような勉強では とても追いつかないぞ。今の二倍、三倍も 頑張らなければ、特技章はとてももらえない。 外出中も宿舎に閉じこもって、みんな 勉強していたものだ。  巡検後、みんな豆電球を持って、吊床の 中で毛布を頭からかぶって、こっそり勉強 したものだ。」というものでした。それまで、 巡検後に起きて勉強していると叱られ ましたが、この頃になってからは、 「明日にさしつかえるから早く寝ろ。」と 注意するくらいでした。  練習兵の教程は、海兵団を離れる前日まで、 みっちりと行われました。7月31日、いよいよ 海兵団を離れる日が来ました。全員が二種 軍装に着替え、身の回り品一切を詰め込んだ 衣嚢をかついで兵舎を離れました。  そういう風景を見て、「最近の海兵団の卒業 風景は寂しいなあ。俺たちが卒業する頃は、 軍楽隊のが蛍の光を演奏して、送りだして くれたものだったがなあ・・・」と、教班長同士が 話していました。  やがて、それぞれの術科学校へ向かうトラックに 乗り込んだ第一期練習兵は、次々と出発して いきました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 小野沢兵長 [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、卒業が近づき、弟のように 可愛がってくれた小野沢兵長ともお別れ しなければならないと考えていました。  (小野沢兵長は、終戦後、小淵氏が 砲台の番をしている時に、偶然バスに 乗るところを見つけ追いかけた下士官 です)。  小野沢さんは、小淵氏らを教えている 教班長の一期後輩でした。ある日、巡検後に 起こしに来た衛兵が、「小野沢さんが待って いるから。」と言うので、(小野沢さんが誰か 知らずに)行ってみると、教員助手を している人が兵舎の外で待っていました。  小淵氏は、この時、初めてこの人が 小野沢さんであると認識しました。 小野沢さんと小淵氏は、一緒に 海岸端に行って腰を降ろしました。  小野沢さんが、小淵氏のひざに、 酒保の菓子袋を開いて乗せ、「吊床の 中で食べているのを見つけられると うるさいから、ここで食べてゆこう。」と すすめられました。そして、空を見ながら 星座の話などを、してくれました。  その後、週に一回くらい会っていました。 そのたびに、いつもお菓子を持ってきて くれていました。  ある日、小野沢さんが、「外出ができる ようになったので、映画を見る機会もある だろうが、映画は見ない方がよい。故郷を 思い出し寂しくなる。」と言っていました。  小淵氏は、この話を聞く前に、映画館で 上映されていた「巌窟王」を二度も繰り返し 見ていました。この映画は、原作を江戸時代 から幕末にかけて設定した和訳風の映画で、 小淵氏が入団する前に封切られたものでした。  それを見た友人に勧められていましたが 入団で見逃し、練習兵になってやっと 見られたものでした。  この後、小野沢さんの助言通り、映画は 見ないことにしたとしています。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 卒業間近 [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、後輩たちを見て、「これまた、 ずいぶんやわいのが集まったものだなあ・・・。」 と、自分たちが入団した当時のことなど忘れて、 あまりに子供っぽい二期兵に誰もが目を 見張りました。  7月半ば頃、各自の志望する術科学校の 調査がありました。この術科学校は、海兵団 教育を終了して実施部隊に配属され、その 中から選ばれたものが入校する建前になって いましたが、練習兵には、すぐに術科学校 入校の特典が与えられました。  小淵氏は、横須賀砲術学校の測的術幹部を 希望しました。その発表があったのは7月の末で、 同教班の戸谷一曹も同じ希望でした。しかし、 彼は卒業目前に胸膜炎にかかり入院しました。  練習兵生活と別れが近くなると、教班長は 全く怒らなくなりました。少々ヘマをしても 「気をつけろよ。」というぐらいで、罰直は ほとんどなくなっていました。  何か気が抜けた気分であり、教班長も 寂しそうでした。それは、精魂込めて事を なし終えた人達の姿でした。しかし、5人の 普通学教員は、短期現役で除隊が近づいて いたためか、溌溂としていました。この人達は、 やがて故郷に帰り、教鞭をとるようでした。  教班長は、全身全霊を傾けて教育した 少年がまもなくそれぞれの方面に散って いくのを、見届けることもなく、再び実施 部隊に配属されていきます。  海軍は人事異動が激しいところで、教班長や 分隊士、分隊長も移動となっていました。 小淵氏は、これらの人達と、再び合う機会が あるのだろうかと、思いました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 軍事教練仕上がり [巡洋艦大淀]

 庄司分隊長は、火災訓練の笑い話をはじめ ました。  「ある時、艦務実習で、今日のような訓練が あった。火災と書いた旗を見つけた者が届けに 行くと、そのあとから来た者がよほど頭の 涼しい兵隊さんとみえて、その旗をとると くるくると丸めて、そばにあった防火用水に 投げ込んでしまった。  みんなが消火用具を持って駆けつけたが、 火災の旗がないのでまごまごしていると、 その兵隊さん、消火用水を指差して、 火災鎮火といっていた。」と言って、 小淵氏らを大笑いさせていました。  艦務実習は、厠を除けば、興味深いもの でした。各教班長も、それぞれ専門分野の ことなので、みんなを笑わせながらの 楽しい実習でした。  海兵団教育も終盤になると、短艇の 帆走なども行われました。初夏の風を 一杯に受けて快走する帆走は、男らしい 爽快なものでした。  通船なども自由に漕げるようになって いました。手旗も上達し、お互いに読み こなせるようになりました。  軍事教練の方は、いよいよ仕上がり でした。しかし、普通学の教課はかなり 残っていました。  普通学が急ピッチで進められていた 7月初旬に、第二期が見学に来ました。 第二期の練習兵は7月1日付の 入団でした。  それまで、小淵氏ら第一期兵の成績 いかんであると、叱責されたり励まされたり しながら、頑張っていました。後輩が 入団したことで、一期兵は、俄然 張り切りました。  あとに続くも者があるということは絶大な 歓びであり、男子としての生きがいでも ありました。講義を受けている講堂の 左右と後方に、坊主頭が一杯に 並んで押し合っていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 火災訓練 [巡洋艦大淀]

 春日での艦務実習は、3泊4日続けられ、 種々の訓練を受けましたが、いずれも、 陸上の海兵団では知ることのできない 貴重なものでした。  今まで、艦船勤務の長かった教班長たちは、 この実習では、水を得た魚のように生き生きと していました。庄司分隊士は、数多くの教訓を 示してくれました。  艦内火災の時、“火災”と染め抜いた旗を どこかに出すことになっていましたが、その旗が、 いつどこに出されるかは知らされていません でした。それを見つけた者が、当直教班長に 届けると、直ちに「火災発生、どこそこ。」と 通達されました。  その時、「待て、しばし。」のラッパが鳴りました。 このラッパで、次の動作に何をすべきかを十分に 考え、慌てずに次の行動に移る用意を整える というもので、その後に「かかれ。」の号令が あるまで動いてはいけないことになっていました。  火災現場に分隊員がそれぞれの消火用具を 持って駆けつけると、そこには時計を睨みながら 長身の庄司分隊士が]突っ立っていました。  そして、「なかなかよろしい。それに消火用具も それぞれに考えたとみえて、これだけあれば火災も すぐに消せるだろう。」と、みんなが持っていた物を ひとあたり見渡して、満足そうに言いまし  そして、「火災訓練は、早期発見と初期消火が 一番大事だ。それぞれが協力し合わなければ いけない。火災だと言って、みんなが全部 消火栓にとびついたり、ホースを取り合って いたのでは、混乱して十分な消化はできない。  そのことをよく覚えておくように・・・」と言って から、火災訓練について笑い話をはじめました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 1ヶ月の短縮 [巡洋艦大淀]

 7月になり、水泳訓練が始まりました。 泳げない赤帽、少し泳げる白帽、上手な ものは、白帽に赤線が、1線、2線と つけられていました。  この水泳訓練は、長時間浮かんでいるのを 目的とするもので、競泳は行われませんでした。 しかし、かなりの遠泳などがありました水泳の 訓練が終わると、相撲が行われました。  これは、「押さば押せ、引かば押せ。」の、 押しの一手で攻めまくる海軍式の相撲でした。 それと、負け残りなので、勝つまで土俵を 降りることは、できませんでした。  これは、敢闘精神を養うもので、銃剣術や 剣道など、あらゆる競技に負け残りが ありました。  当初、1年の訓練期間が設定されていましたが、 1ヶ月短縮され、7月一杯で終了となりました。 しかし、その理由の説明はありませんでした。 そのため、5月から、各教課ともかなり速い テンポで、進められました。  艦務実習は、第一海兵団の岸壁に繋留 されている特務艦春日で行われました。 この春日は、日露戦争当時の軍艦で、 旧式となっていましたが、小淵氏は、 初めて身近に接する軍艦の内部は 全て珍しく、驚嘆しました。  この実習で閉口したのは、艦内の厠 でした。一段高くなったところに腰掛けて、 8名ほどが並んで用を足しましたが、仕切りは、 30cmの高さの板があるだけでした。  「軍艦の厠はこんなものだ。」と言われ、 軍艦乗艦を希望していた者の中から、厠の 問題で、陸戦隊を希望するものが出たほど でした。  春日での艦務実習は、三泊4日 続けられ、種々の訓練を受けました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 姉と面会 [巡洋艦大淀]

 東郷神社から、再び電車に乗り、東京駅に 着いた時は、豪雨もやんでおり、雲に切れ目 から、青空が見えていました。  ここで休憩があり、面会も許されました。 小淵氏は、前もって連絡していた二人の 姉と会いました。  海兵団でも日曜日には面会が許されて いたので、二度ほど会っていました。始めの 頃は、面会が嬉しいものでしたが、この頃は、 さほどでもなくなっていました。海軍に入って 10ヶ月、海兵団生活にもすっかり馴れて、 故郷のこともあまり気にかけなくなって いました。  姉たちと、駅前の広場を歩いている時、 輪になった人垣を見ました。輪の中に いるのは、学徒出陣の者らしく、まわりを 仲間が囲んで激励しているところでした。  角帽に羽織、袴の応援団長風の大男が、 扇子を広げて何やら歌いながら踊るふうな 仕草をしていました。やがて、集合の号令が かかり、姉たちと別れて再び皇居に遥拝し、 横須賀に向かいました。  翌日、普通学の時間に、「お前たちは、 昨日の東京行軍で、海軍の伝統を汚した。 それがなにかわかるか。」と満面に 怒気を含んで睨んできました。  数名が答えましたが、「そんなことではない。」と 一蹴されました。「誰もわからんのか」と嘆かわしい と言った口ぶりで語りました。  電車に乗り込む時に、先を争って席を奪い 合っていた者がいたということでした。そして、 「あのざまは何事だ。海軍の軍人にあるまじき 行為と思わないか。」と叱責されました。  小淵氏らは、猛省するしかありませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 空の神兵 [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、落下傘部隊の人達を観察しました。 皆水兵長の階級章で、年齢も体格も同じように 見える人達でした。  しかし、今まで一緒に行動して、その練度は、 小淵氏ら練習兵など遠く及ぶものではないと 感じていました。  小淵氏は不思議な部隊だと思い、教班長に 聞いてみました。すると、「この人達は、初戦に メナドに降下して空の神兵と言われた落下傘 部隊の人達だ。」と教えられました。  小淵氏は、この時になって初めて、一緒に 来ていたのが、落下傘の八木部隊であることを 知りました。この部隊は、後にサイパンの守備に つき、陸戦隊として華々しく玉砕しました。  しかも、戦後20年も経ってから、この部隊に、 小淵氏と同郷の人がいたことを知りました。  今回の靖国神社の参拝は、前日、第一 海兵団に行って宿泊し、早朝、横須賀を 出発した時には、大粒の雨が降り出して いました。  東京駅についた時は、はげしい雨足と なっていましたが、その中を行軍しました。 雨の中で、皇居に遥拝し、靖国神社に 向かっていました。  靖国神社から今のJR に乗り、代々木で 下車後、明治神宮を参拝しました。そこから、 さらに雨の中を行進して、東郷神社に着き、 参拝を済ませ昼食をとりました。  ずっと、雨の中の行進が続いたので、 海軍の短い雨衣は着用していたものの、 下半身はずぶ濡れでした。昼食を済ませると、 海軍館や宝物殿の見学が許可され、 それらを教班長の説明を聞きながら、 見学しました。  ここには、軍艦や潜水艦の精巧な模型が あり、実物を知らない練習兵は、それらの 模型にも驚嘆しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 靖国参拝 [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、練習兵教育時代に、思い出に 残ることが多かったとしています。  その一つが、靖国神社の春の例大際に、 海軍代表として落下傘の八木部隊と 練習兵分隊が、参加したことでした。  早朝に海兵団を出発して、東京に着いた 練習兵分隊は、教育主任尾崎中佐の 指揮下で、二重橋の前で皇居に遥拝し、 そこから軍楽隊を先頭にして都内を行進し、 靖国神社に着きました。  「お前たちの一挙手一挙足は、万人の 注視の的になっている。海軍軍人として 恥ずかしくないような立派な行動をとれ。」と 固く注意されていたので、誰もが緊張して 脇目を振らず行進でした。  大鳥居をくぐり、玉砂利を踏みしめて進み、 社殿にぬかづきました。“捧げ銃”の号令と 共に、吹奏される「国のしずめ」の曲が 瞑目する心身を清め、吹奏は、天空へ 行くようでした。  参拝を済ませた小淵氏らは、参道入口 近くで休憩が命じられました。“叉銃”の 号令がかかると、落下傘部隊の人達は、 「やっ」と掛け声を掛け合うと同時に、 叉銃は見事に終えていました。 まるで手品のような早業でした。  小淵氏らは、同じ動作を3人で銃先を こじり合わせながらやっと組み立てており、 落下傘部隊の兵に、すぐ脇で微笑しながら 見られていました。  その眼差しは、軽兵団の砲台番のような 意地悪な上級者の眼差しではなく、兄の ようで、「お前たちだって、すぐにこのように できるよ。」と言っているようでした。  小淵氏は、この人達は、何者なのかと 感じました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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