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山口多聞 河井継之助 [山口多聞]

 山口少将は、山本五十六長官を
学ぶべき武人としていたのは、
いつの頃からか、ナポレオンに
傾倒していたことと関係が
あります。

 山本長官が、先生といっている
河井継之助が、ナポレオンを思わせる
戦術を駆使していたという話を聞いたから
でした。

 河井継之助は、幕末に越後長岡藩の
上級家老を務めていた人物です。戊辰
戦争の時、局外中立を保とうとしました。

 1868年5月2日、新政府の置かれた
小千谷の慈眼寺で岩村総監と談判して、
長岡藩の中立を申し出ましたが、一蹴
されました。

 山本長官が、「河井継之助先生の
心境だよ。小千谷談判に赴いた先生の
気持ちで臨まないな。」という言葉は、
このことを指しています。

 局外中立が受け入れられなかったことで、
新政府軍と戦う決意をした河井継之助は、
総督として陣頭指揮を執りました。長岡藩は、
最新式のガトリング機関砲などで善戦しました。

 河井継之助は、ナポレオンを思わせ戦術で
敵を翻弄し、自身もガトリング機関砲を操作して
いたという話も伝わっています。しかし、この戦場で
負傷し、この傷がもとで、死没しています。

 河井継之助の号は、「蒼龍窟」といい、「一忍を
もって百勇を支え、一静をもって百動を制す。」を
座右の銘としていました。この金言は、多くの人達に
尊ばれました。山本長官も尊んだと思われます。

 山口少将は、山本長官から聞いた河井継之助の
話は、興味深かったようです。そして、自分が
学ぶべき武人は、目の前にいる山本五十六
長官だと感じたようでした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 再びワシントンに [山口多聞]

 山口少将は、1934年8月中旬、
ワシントンに着任しました。

 9月7日、山本五十六少将は、第二次
ロンドン軍縮会議の予備交渉の日本代表を
命じられ、20日に離日しました。

 ロンドン軍縮条約の有効期限は、5年間であり、
期限満了の1年前に予備交渉をしてから、
第二次ロンドン会議が開かれる手はずと
なっていました。山本長官は、ワシントンに
立ち寄り、山口少将と会っています。

 山口少将が、「今回は厳しい交渉になり
そうですね。」というと、山本長官は、「河井
継之助先生の心境だよ。

 小千谷談判に赴いた先生の気持ちで
臨まないな。」と、自分の同郷で、幕末に
家老を勤めた人物を引き合いに、
返事しています。

 山口少将は、山本五十六長官を
学ぶべき武人としていました。しかし、
酒好きな山口少将に対して、山本長官は、
下戸でした。

 山本長官は、酒豪のような顔立ちですが、
アルコール過敏症のため、酒類は一切
受け付けられませんでした。

 代わりに無類の煙草好きで、チェリーを、
1日30本ほど吸っていました。葉巻は、山本長官の
トレードマークのひとつでした。この日も、アメリカ製の
高級葉巻を、うまそうにふかしていました。

 山本長官からは、気分転換に部下をニューヨークに
連れて行き、ヤンキースの試合でも見に行くことを
勧めています。この当時、ホームラン王ベーブルース
らが活躍しており、大スターを抱かえての全盛期を
迎えていました。

 山口少将が赴任したこの年の11月に、全日本
チームと全米大リーグの選抜チームが日本で
試合をしており、日本は、16試合全敗となって
います。

 野球のレベルの差が、日米のスケールの違いを
如実物語っていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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