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山口多聞 河井継之助 [山口多聞]

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 山口少将は、山本五十六長官を
学ぶべき武人としていたのは、
いつの頃からか、ナポレオンに
傾倒していたことと関係が
あります。

 山本長官が、先生といっている
河井継之助が、ナポレオンを思わせる
戦術を駆使していたという話を聞いたから
でした。

 河井継之助は、幕末に越後長岡藩の
上級家老を務めていた人物です。戊辰
戦争の時、局外中立を保とうとしました。

 1868年5月2日、新政府の置かれた
小千谷の慈眼寺で岩村総監と談判して、
長岡藩の中立を申し出ましたが、一蹴
されました。

 山本長官が、「河井継之助先生の
心境だよ。小千谷談判に赴いた先生の
気持ちで臨まないな。」という言葉は、
このことを指しています。

 局外中立が受け入れられなかったことで、
新政府軍と戦う決意をした河井継之助は、
総督として陣頭指揮を執りました。長岡藩は、
最新式のガトリング機関砲などで善戦しました。

 河井継之助は、ナポレオンを思わせ戦術で
敵を翻弄し、自身もガトリング機関砲を操作して
いたという話も伝わっています。しかし、この戦場で
負傷し、この傷がもとで、死没しています。

 河井継之助の号は、「蒼龍窟」といい、「一忍を
もって百勇を支え、一静をもって百動を制す。」を
座右の銘としていました。この金言は、多くの人達に
尊ばれました。山本長官も尊んだと思われます。

 山口少将は、山本長官から聞いた河井継之助の
話は、興味深かったようです。そして、自分が
学ぶべき武人は、目の前にいる山本五十六
長官だと感じたようでした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)


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