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山口多聞 小石川表町に生れる [山口多聞]

 ここから、山口少将の、足跡をたどって
いきます。

 1892年(明治25年)8月17日で、山口家の
三男として東京の小石川表町に生れました。
育ちは、現在の新宿区にある砂土原町です。
生まれと育ちの家はどちらも空襲で焼けて
しまいました。

 父の宗義氏は松江藩士で、母貞子氏は、
肥前藩士の娘で、5男三女に恵まれています。
山口少将は、兄2人、姉2人に次ぐ5番目の
子供でした。両親とも武家の出でしたので、
質実剛健を旨としていました。

 山口少将は、物心がついてから、「尊敬する
楠木正成公の幼名多聞丸にあやかったものだ。
大きくなったら、大楠公のような忠義大孝の男に
なれ。」と言ったことをたびたび聞かされました。

 1899年、富士見小学校に入学しました。
近くの九段下には、靖国神社の広大な境内が
広がっていました。靖国神社は、戊辰戦争以来の
英霊を祭る神聖な場所でしたが、うっそうとした
林に囲まれた境内は、子供にとって申し分のない
遊び場でした。

 山口少将は、旧友から「まんじゅう」という
仇名をもらっていました。それは、食欲旺盛で、
好き嫌いくなんでも口にしたからでした。
病気一つせず、丸々とまんじゅうのように
太っていました。

 相撲をすれば、同年代でかなう人はいないほど、
健康優良児を絵にかいたような子供でした。
父からは、暇があれば、武道の手ほどきを
受けていました。

 1902年、日露戦争が始まり、翌年の4月には、
バルチック艦隊が日本に迫り、世情が騒然とする中、
開成中学校に入学しました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 呉に帰還 [山口多聞]

 ウェーク島攻略部隊は12月23日に
ウェーク島上陸を敢行し、守備隊は
クリスマスを前に降伏しました。

 占領したウェーク島は南鳥島に倣って、
大鳥島と改称されました。第二航空隊は、
機動部隊本隊から1週間遅れて、呉に
帰還しました。

 山口少将は、連合艦隊旗艦長門の山本
長官を訪ねました。山本長官は、「よくやった。」と
笑顔で出迎えてくれましたが、「不十分であります。」と
苦笑して返答しています。

 この一言に、山口少将のハワイ作戦に対する
答えが凝縮されていました。

(追記)
 冷静に分析すれば、山口少将の言葉通りで、
真珠湾攻撃は不十分どころか、戦果なしと
言えるような愚作になっています。

 山口少将が指揮官だった場合を仮定すると、
大きな差が現れます。
①真湾に対する反復攻撃の実施
 これにより、燃料タンクと工廠の整備ドックが
 破壊されれば、真珠湾は基地としての機能が
 当分の間なくなり、アメリカ軍は、本土から
 太平洋に出るしかなくなり、作戦に支障を
 きたしたはずでした。

②空母の索敵の実施
 近くにいた、エンタープライズとレキシントンの
 2隻がいました。どちらか一方でも発見して撃沈
 していれば、その後の機動部隊同士の海戦は
 違ったものになっていました。

③ミッドウェー島への爆撃
 実行していれば、ミッドウェー海戦の大敗北は
 避けられたと思われます。

 これだけで、戦略的に意味が出せるかと
言うと、厳しいとは言えますが、かなり違った
展開になったことはまちがいありません。

 南雲長官には、持論の通り、南方方面作戦に
専念してもらうか、作戦部の参謀にした方が
良かったといえます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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