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山口多聞 第一次世界大戦の勃発 [山口多聞]

 山口少将が、筑摩に乗艦した1914年
6月28日に、オーストリア・ハンガリー帝国の
皇位後継者だったフェルディナント大公夫妻が、
ボスニアの首都サラエボで暗殺されました。

 オーストリアは、暗殺事件の裏で糸を
引いていたとしてセルビアに宣戦布告
しました。

 オーストリアやイタリアと同盟を結んでいた
ドイツは、セルビアを後押しするロシアや、
ロシアと三国協商を結んでいたイギリス、
フランスに宣戦布告しました。

 これが、第一次世界大戦の勃発でした。

 日本は、日英同盟の関係からイギリスを
支援する立場でした。イギリスから、東シナ海を
航行する商船をドイツの武装商船から護って
欲しいという要請があり、日本は、ドイツに
宣戦布告しました。

 9月2日、山東半島に上陸し、山東鉄道を
管理下におき、11月7日には、ドイツの租借地
青島を陥落させました。東京では、派手な
花電車が繰り出され、国民は戦勝祝いに
酔っていました。

 大隈内閣は、対華21か条の要求突きつけ、
最後通牒によって、5月9日に承認させました。
これが、大陸への足がかりとなりました。さらに、
太平洋のドイツが統治していたカロリン、
マリアナ、マーシャルなどの南洋群島も
奪取することにしました。

 海軍は、第一南遣支隊を派遣しました。
第一次世界大戦後、国際連盟の了解のもと、
日本はドイツに代わって、南洋群島を委任
統治することが認められ、パラオのコロール島に
南洋庁、サイパンに南洋支庁を置きました。

 日本は少ない犠牲で、南太平洋の島々を
手に入れました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 遠洋航海実習 [山口多聞]

 海軍兵学校卒業生は少尉候補生となり、
士官番号が与えられました。締めくくりとして、
遠洋航海実習がありました。

 遠洋航海実習は、世界を見られる最初の
機会であり、少尉候補生が、士官学校で
先輩の鉄拳の雨をこらえる目的でも
ありました。

 1912年12月5日、少尉候補生は、巡洋艦
吾妻と宗谷の二艦に分乗していきました。
山口少将は、巡洋艦宗谷に乗りこみました。

 宗谷は、日露戦争の時、仁川港で日本海軍に
攻撃され自沈したロシアの艦を引き上げて、
改修したもので、日露戦争の生々しい
傷跡がありました。

 練習艦隊は、横須賀を出航し、香港、
シンガポールを経て、オーストラリアに
向かいました。

 シンガポールを出ると、恒例の赤道祭が
行われました。赤道際は、赤道の神様から
許されて南半球に入るという儀式でした。

 赤道際では、赤道神に扮した水兵が、
赤鬼と青鬼を従えて、天に見立てた
マストから降りてきます。艦長は、赤道神
から鍵を恭しく受け取り、祭壇の上で
開けるというものです。海軍の遊び心を
表しています。

 艦隊は、フリマントルからメルボルン、
ホバート、ブリスベーン、木曜島に寄港
しました。さらに、オランダの植民地
セレベス島のマカッサル、フィリピン
諸島のセブ、上海近くの呉淞を経て、
1943年4月21日に横須賀に戻って
います。

 遠洋航海を終えた候補生は、12月1日付で、
晴れて海軍少尉となり、山口少将は、旧式戦艦
攝津に乗船しました。

 そして翌年の5月、巡洋艦筑摩に乗艦して
います(この筑摩は、航空巡洋艦利根の
二番艦ではなく、初代筑摩です)。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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