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山口多聞 第一次世界大戦における潜水艇 [山口多聞]

 潜水艦や航空機は、第一次世界大戦中に
毒ガスや戦車などとともに、大量殺戮兵器として
急速に発展しました。

 極東では、青島攻防戦で、航空機が始めて
登場し、ドイツの複葉機が、日本軍陣地に
爆弾を投下しています。

 日本海軍も、7kgほどの小型爆弾を麻縄で
吊るして、現地で縄を切って落とすという
単純な方法で、爆弾投下をしています。

 この当時の航空機は発展途上であり、
殉職者が絶えませんでした。潜水艇も
発展途上であり、青年からは敬遠されて
いました。

 ところが、第一次世界大戦で、ドイツの
Uボートが同盟国側の軍艦や、輸送船を
次々と撃沈し、大きな戦果をあげていました。

 日露戦争では、海上を縦横無尽に駆けて
魚雷を放つ水雷艇が活躍しましたが、
巡洋艦や駆逐艦の魚雷発射精度が増し、
水雷艇は時代遅れとなっていました。

 第一次世界大戦では、潜水艦が魚雷攻撃の
主役となっていました。このような時代の変化の
中で、山口少将は、旧式の潜水艇に乗り込み、
狭い艦内で構造や仕組みを学びました。

 1917年、ドイツは、戦闘区域内では、どこの
国の船舶も無差別に攻撃するという作戦に
出ました。それにより、中立を守っていた
アメリカは、ドイツと国交を断絶し、参戦
しました。

 日本は、イギリスからの要請を受け、西方
(インド洋と地中海)へ、艦隊を派遣しています。
第一特務艦隊は、主としてインド洋で行動する
ドイツ艦隊の掃討を、第二艦隊は、地中海へ
派遣されました。

 山口少将は、第二艦隊に関わることに
なりました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 初陣 [山口多聞]

 山口少将は、第一次世界大戦が初陣と
なりました。最初の任務は、イギリスから
依頼を受けた輸送船団の護衛でした。

 山口少将は、筑摩に乗り込み、特別南遣
支隊の一艦としてインド洋に向かっています。
筑摩は、煙突4本が等間隔に直立した
スマートな船体の艦で、絵葉書にもなり、
乗組員らによって関係者に送られました。

 筑摩は、南遣支隊に編入され、筑波、生駒、
矢矧などの巡洋艦とマーシャル諸島方面に
派遣されました。

 翌年の12月、山口少将は、中尉に昇進し、
海軍砲術学校普通科学生となりました。
山口少将は、砲術学校を半年で終えて、
さらに水雷学校普通科学生となり、
半年で卒業しています。

 1916年12月に、山口少将は、第三
潜水艇隊付となりました。潜水艇隊は、
潜水艦を扱う隊でした(当時は潜水艇と
呼んでいました)。

 潜水艇を実用化したのは、アメリカで
1875年でした。日本が潜水艇を導入
したのは、日露戦争中で、アメリカの
エレクトリック・ボート社から潜水艇を
分解して輸入し、国内で組み立てて
います。

 第5潜水艇までは、アメリカ製ですが、
第6潜水艇からは、国内で製造して
います。

(追記)
 国内で最初に製造された第6潜水艇は、
1910年4月15日に、広島湾で潜航訓練中に
故障し、艇長の佐久間大佐以下艇員43名
全員が殉職しています。

 潜水艇が潜航中に事故に会うと、空気を
求めて艦内は地獄の様相を呈しますが、
佐久間艦長は、慌てることもなく、手帳に
遺書を綴りました。

 これ行為は、日本だけでなく、世界中で
感動を呼んでいます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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