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山口多聞 歯痒さ [山口多聞]

 山口少将は、数日前から空母はいない
という報告を受けていましたが、週末には
帰港しているのではないかと期待して
いました。しかし、空母が戻ることは
ありませんでした。

 山口少将は、「戦艦は8隻いても、戦艦や
巡洋艦をやっつけたところで、機動部隊が
健在なら、日本の脅威となる。

 ここはなんとしても反復攻撃をして、
石油タンクを破壊し、しばらくは真珠湾を
出られないようにしなければならない。」
と考えていました。

 山口少将は、当初からこの副案を持って
おり、これが必要だと確信していました。
しかし、南雲長官や、草鹿参謀長は、
そこまで欲張ってはいませんでした。
これも、山口少将が、歯痒いと感じて
いたことでした。

 (そもそも、最大も攻撃目標の空母が
いない時点で、作戦をする意味がなく、
この時点で、中止すべきだったといえます。)

(追記)
 山口少将の判断は、すぐれた見識であり、
前線指揮官として資質は抜群だと思えます。

 山口少将の作戦をそのまま使って真珠湾を
攻撃していれば、ある程度は戦略的に
意味のある攻撃になったと言えます。

 真珠湾作戦そのものが、戦略的に意味を
持たせることは難しいので、真珠湾攻撃に
反対していた南雲長官の判断は
間違いではありません。

 しかし、作戦を実行すると決めたい以上、
終始反対か消極的な南雲長官や草鹿
参謀長は、外すべきだったと言えます。

 まして、戦争は、運がどのように傾くか
分からない以上、できるときには、徹底的に
最大限の成果を挙げるという態度が
必要であり、欲張りなどという感覚は
捨てるべきと言えます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 真珠湾の状況 [山口多聞]

 機動部隊は、敵の哨戒圏内に入りました。

 山口少将は、まんじりともせず、12月8日を
迎えました。午前零時、各艦艇では、司令官、
幕僚、艦長、参謀はじめ、搭乗員らが順に、
艦内にある神社を詣でました。

 山口少将は、柏手を打ち、深々と頭を下げ
ました。無言で参謀長らが続きました。搭乗員
には、御神酒が配られ、全員が今生の最後の
盃と覚悟して、口に含みました。

 この後、山口少将は、艦橋内にある羅針
甲板に入りました。機動部隊の各艦艇には、
東京霞ヶ関にある海軍省内の大本営海軍部や
広島湾の桂島に停泊中の戦艦長門の
連合艦隊から間断なく、無線連絡が
入りました。

 ホノルルにある総領事館に赴任した書記の
森村正氏が、真珠湾に停泊しているアメリカ
太平洋艦隊に関する情報を、逐次東京へ
暗号で打電していました。

 森村氏は、本名は吉川猛夫といい、海軍
少尉の時に病気になり、諜報を担う部の
嘱託になっていました。

 太平洋艦隊の主力母港は、カリフォルニア
半島の付け根のロサンゼルスより南にある
サンディエゴでした。4月に行われた大演習
終了後、真珠湾に入港したまま、南方進出を
はかる日本に睨みをきかせる為、留まって
いました。

 真珠湾は、借りの停泊地であり、いつ、
本国に引き揚げるかは分かりません
でした。そして、山口少将は、最も
優先していた情報は、空母の
動向でした。

 空母は、最大の攻撃目標でしたが、
エンタープライズとレキシントンは
いませんでした。

 真珠湾に攻撃最大目標である空母が
いないことに、山口少将は、歯痒さを
感じていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 DG信号旗 [山口多聞]

 午前7時機動部隊は、針路を南南東に
とりました。

 めざすオアフ島は、約750海里(1340km)と
なりました。これまで、13ノットの速度で航行
していた機動部隊は、24ノットに速度を
上げました。

 この時、山本長官の訓示電報を受け、
旗艦赤城のマストに、将旗と一緒に、DG
信号旗「皇国の荒廃、この一戦に在り。
各員一層奮励努力せよ。」が翻りました。

 この信号旗は、日露戦争の際に、日本海で
バルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊司令長官の
東郷平八郎元帥が、決戦前に旗艦三笠に掲げた
Z旗と同じ意味を持つものでした。

 各艦では、士気を鼓舞する声が上がりました。
この以降、空所に詰めてあったドラム缶と、
18L入りの石油缶を、燃料庫に移す作業が
始まりました。

 空缶は、潰して空所にしまいこみました。
敵に発見され可能性があるので、空缶を、
海に捨てるわけには行きませんでした。

 風が強くなり、艦の動揺が激しくなり、
手元が狂って、手や指を怪我する作業員が
続出しました。

 診察室に行こうともせず、布をぐるぐる巻き
つけていたり、中には血をだらだら流しながら、
作業する兵(つわもの)までいました。

 艦内では、「重油の一滴は、血の一滴」を
合言葉に燃料消費量を節減しました。電気の
節約はもちろんのこと、入浴制限や水の節約を
実行した結果、機関参謀から、燃料の減りが
少なすぎる。計量の誤りではないか。」と
言わしめました。

 「いよいよ明日、国運をかけた戦いが始まる。」
山口少将は、瞑目し、真珠湾奇襲の成功を
祈りました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 補給船が離れる [山口多聞]

 12月4日、深い霧と雨の中、東進を
続けて機動部隊は、C点(北緯41度、
西経165度)に到達しました。

 ここから、一路ハワイ針路をとり、
145度に変針し、南南東へ向かい
ました。

 蒼龍の柳本艦長から、「これよりD地点に
向かいます。」と報告を受けました。
山口少将は、「まるでヒヨドリ越の
逆落としだな。」と答えました。

 それに対し、柳本艦長は、「それなら
司令官は、九郎義経ですな。」として
います。山口少将は、「こんなに太って
いたら、馬が持ちこたえられんだろう。」と
返事し、笑い声が起こりました。

 緊迫していた作戦室がなごみました。


 6日になり補給艦三隻が離れていきました。
入れ替わるように、途中で脱落していた伊23が
追いつき、合流しました。乗員は、気炎を
あげました。

 翌7日には、残りの補給艦4隻と、駆逐艦霰が
前進をとめ、作戦成功を祈る発光信号を送り
ました。

 単冠湾以来、行動をともにした補給艦群が、
「ご成功を祈る」の旗信号を揚げつつ、
遠ざかっていきました。補給艦は、所定の
位置で、機動部隊の帰りを待つことに
なっていました。

 山口少将は、補給艦が、蛇管で空母や
艦艇にホースでもって燃料を送る時、
まるで母の乳房のように見えており、
胸に迫るものがありました。

「美しき 桜の花も 咲かざらむ 培う根幹 なからざりせば」
と遠ざかる補給艦を見て、詠んでいました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 米英蘭に対し開戦す。 [山口多聞]

 機動部隊が日付変更線を超えた12月1日、
宮城内で開かれた御前会議で、「11月5日
決定の帝国国策遂行要領に基づく対米
交渉は、ついに成立するに至らず。

 帝国は、米英蘭に対し、開戦す。」と決定
されました。永野軍令部総長は、「大海令」
第9号を山本長官に下達しました。

 翌日の2日、広島湾の桂島泊地の旗艦
長門から、「ニイタカヤマノボレ1208」の
電文を発信しました(ニイタカヤマというのは、
富士山より高い台湾最高峰の山です)。

 1208は、12月8日の意味で、12月8日に
予定通り行動せよという暗号でした。この
電文は、旗艦赤城をはじめとして、全艦艇が
受信しました。

 山口少将は、蒼龍で参謀からの報告で
知りました。山口少将は、皆を集め、「聖断が
下った。皇国の一戦ここにあり。もう引き返す
ことはできん。各科で全身全霊をあげて、
準備に勤しむように」と訓示しました。

 機動部隊は、深い霧の中、苦労しながら
航海を続けました。日本の艦艇に電探が
搭載されるのはミッドウェー開戦後であり、
この時は、影も形もありませんでした。

 濃霧の中、信号灯もはっきり見えず、
苦肉の策として、ボートに鐘を積んで、
ロープで引きました。航続の艦艇は、
その音を頼りに、接近しすぎないように
神経を使いました。

 原始的な方法でしたが、他に名案がなく、
この当時としては、致し方ない方法でした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 日付変更線を超える [山口多聞]

 洋上の給油は、駆逐艦や巡洋艦は、補給艦が
前方か横からホースを渡す方式なので、それほど
苦労はありませんでした。

 しかし、空母は、補給艦が後方から送って
いたため、ポンプに負担がかかりました。
南雲長官や、参謀は、洋上補給を心配して
いましたが、波が高いとはいえ、それでも
平年に比べて、海は穏やかで、思ったより
スムーズに給油が出来ました。

 29日に、軍令部第一部長の福留少将から、
「日米交渉の前途絶望」との電報が届きました。
山口少将は、「やはり」と考え、幕僚と顔を
見合わせてから、洋上をにらみました。

 30日になり、伊23が、調速器とポンプ
故障のため、本隊から離脱するという
騒ぎがありました。12月1日、機動部隊は、
東経180度線の日付変更線を越えました。

 日付変更線をまっすぐに南下すれば、
ミッドウェー島がありました。島には、
アメリカ軍基地があり、飛行場も
整備されていました。

 いつ、索敵の飛行艇が飛来してくるか
分からない上に、警戒艇や潜水艦も航行
しているかもしれませんでした。

 機動部隊は、各国の商船と出会ったら、
ただちに停止させて乗り込み、無線封鎖
することにしていました。

 しかし、その前に打電されたらおしまい
でした。そのこともあり、山口少将は、出航前の
作戦会議で、「空母から艦上機を飛ばして、
哨戒すべき。」と主張していました。

 しかし、参謀から、「悪天候で行方不明に
なったら、誘導電波を出せないので助け
られない。

 もし、艦上機が母艦への帰還を求めて
電波を出したら、機動部隊の位置が、
アメリカ側に知らされる。」として
反対されました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 単冠湾を出航 [山口多聞]

 単冠湾を出航した11月26日の夕刻、
飛龍の甲板では、しめやかに葬儀が執り
行われていました。

 前日、発動機試運転場で、艦上機の
プロペラに叩かれて即死した整備員が
いたので行われました。

 海軍式の水葬の間、重員は唇を噛み
締めていました。北太平洋に乗り出した
機動部隊は、荒波を突き進みました。
先頭は、警戒隊の旗艦の阿武隈が
受け持っていました。

 阿武隈の左右に駆逐艦がついていました。
右後方には、機動部隊の旗艦赤城に、加賀、
瑞鶴が、左後方には、蒼龍、飛龍、翔鶴の順で
続きました。典型的な二列縦隊でした。

 空母軍の両側には、戦艦の比叡、霧島、
重巡洋艦の利根、筑摩、そして、各艦の
間に駆逐艦が、配置されていました。
前後27kmにも及ぶ警戒航行序列隊形
でした。

 出航した翌日、駆逐艦霰の水兵一人が、
高波にさらわれてしまうという事故が
ありました。北の海は波が高く、
少しでも気を緩めると、高波に
さらわれてしまいました。

 各艦艇は、無線封鎖を続行しており、
事故があっても連絡のしようがありません
でした。

 信号灯と双眼鏡だけが頼りでした。電信室
では、まちがって電波を発信しないように、
送信機はアンテナ整合部を取り外して
スイッチを封印しました。

 反対に受信は、ささいな電波も見逃さない
ようにしました。特に、東京通信隊や、連合
艦隊旗艦の機動部隊向け電波、敵信号の
傍受には、最新の注意を払いました。

 翌日から、補給艦による洋上補給が始まり
ました。最初は、航続距離の短い駆逐艦や、
巡洋艦へ行われ、のちに、空母にも給油
されました。これは、骨の折れる作業でした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 加来艦長の訓示 [山口多聞]

 11月25日の午後、赤城に横付けしていた
数十隻の内火艇が、白波を立てて各艦艇へ
向けて四散しました。飛龍の加来艦長を
乗せた内火艇も、飛龍に向かってきました。

 飛龍の舷梯につけた内火艇から、加来艦長が
舷門へ駆け上がってきました。冬用の第一軍装が
潮を被って、濡れていました。飛行甲板は、頬を
刺す寒風が強く吹いていました。

 「全員集合」の号令がかかり、乗員全員が
格納庫に集まりました。号令台の上に立った
加来艦長は、ひと呼吸置き、感情を制しきれずに
荒々しく肩で息をしていました。

 戦闘帽の顎紐が、きっと結ばれていました。

 「わが艦隊は、明朝6時、ハワイに向けて
出航する。総員の生命は、艦長がもらい
受けた。全員一丸となって、職務遂行に
全力を尽くして欲しい。

 今までの猛訓練で磨いてきた腕を十二分に
発揮すること。特に搭乗員は、ベッドに横に
なっても、操縦桿を握り、敵殲滅に全力を
尽くすこと。

 ハワイで海戦があれば、次の給油地点までの
燃料もないから、その場合は、片道攻撃となる。
なお、今晩は、前途を祝して乾杯する。上下
無礼講で大杯すべし。」としています。

 各科の末端の兵は、このとき正式にハワイ
作戦が明かされました。その夜は、午後9時まで、
出撃前夜の壮行会が各艦で行われました。

 ほとんどの兵は、さまざまな感情が入り
交じって高揚し、杯を酌み交わしました。

 この時、山口少将は、旗艦蒼龍の艦橋で、
「采は投げられた。」という、ローマの武将
ジュリアス・シーザーの言葉を口にしました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
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山口多聞 ハワイ作戦に向けての訓示 [山口多聞]

 二航戦の士官室に、山口少将は、悠然と
歩いてきて胸を張りました。いよいよ目的が
明かされるとわかり、どの顔も緊張で、
こわばっていました。

 山口少将は、達観していましたが、諦観して
いたわけではありませんでした。日米開戦の
先陣を切るのは、軍人としての最高の栄誉で
あり、気持ちが高ぶっていいはずなのに、
天命をわきまえているせいか、心は
澄んでいました。

 山口少将は、以下の訓示をしました。
「大命により、我々は開戦劈頭、ハワイの
米太平洋艦隊を強襲する栄誉を賜った。

 思えば、30年酷暑厳寒を凌ぎ、強風怒濤を
冒し、日夜練武に努めたのは、一に今日の
ご奉公を果たさんためであり、ついにその
秋が来た。

 わが一撃によって神国の皇威を示し、世紀の
大戦争の先陣を努めるのは、武門の本懐これに
すぐるものはない。訓練はすでに成り、準備は
すでに整う。

 人知を尽くし、臣道の限りをあげ、今や人も
物も不足はない。天は名なき戦いに与せず、
天佑必ず我に在ると確信する。ここに杯を
あげて、遥かに聖寿万歳を三唱し、成功を
祝し、諸子の武運長久を祈念する。」

 訓示が終わると、従兵が用意した盃を
手渡しました。その場にいたどの顔も紅潮し、
感涙していました。

 山口少将は、用意が出来たのを確認して、
手にしていた盃を掲げました。「乾杯」の言葉が、
士官室に響きました。そして、盃を返し、皆が
背筋を伸ばしました。

 山口少将は、宮城の方角に向かうと、万歳を
三唱しました。この後、日露戦争の旅順港
第一回閉塞作戦に志願した77人を歌った、
「決死隊」を山口少将の音頭で全員が
声を張り上げて歌いました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 安定機付改造魚雷 [山口多聞]

 空母加賀に、完成して間もない浅海面用の
魚雷を搭載していました。

 それらの魚雷は、佐世保に寄港しなかった
他の空母に振り分けられました。航空機に
搭載している魚雷は、日本海軍が誇る
酸素魚雷ではなく、空気魚雷でした。

 真珠湾空襲が決まると、海軍省は、三菱
兵器製作所に、日本海軍の秘密兵器である
安定機付改造魚雷100本を発注しました。

 突貫作業で、期日の11月15日までに間に
合わせ、佐世保の軍需部に納品しました。

 改造魚雷は、着水の時に折れて飛ぶ
安定機がついており、普通の魚雷では
海中深く突っ込むところを小さな羽根の
役目をする安定機によって、海中に飛び
込む水鳥のように、浅いところで水平に
なり、進むことが出来ました。

 この他にも、戦艦の分厚い装甲を破って
艦内で爆発する水平爆撃用の徹甲爆弾も
備えました。


 この日、新嘗祭に当たり、各艦では朝早く
遥拝式が行われました。午前9時、機動部隊
旗艦の赤城に、各級指揮官、幕僚、飛行隊
幹部、駆逐艦艦長が集まり、南雲長官から
訓示を受けました。

 引き続き、作戦命令の下達、作戦の打ち
合わせが行われました。飛行長、飛行隊長を
除いた飛行士官は、この時になって、始めて、
ハワイ作戦のことを明かされました。

 夕刻になり、二航戦旗艦の蒼龍の士官室に、
蒼龍と飛龍の准士官以上が呼集されました。
氷の張り付いた内火艇でやってきた飛龍の
准士官、士官たちは、真っ白な息を吐きながら、
蒼龍の舷門をあがってきました。

 士官室内は、異様に緊迫した空気に包まれて
いました。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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