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山口多聞 満州国 [山口多聞]

 満州国は、1932年に成立して
いましたが、山口少将が満州国を
訪れた1934年3月に、帝政を敷き、
溥儀が皇帝に就任していました。

 首都が置かれた長春は新京と
改められていました。満州鉄道で
新京を訪れた山口少将は、関東軍が
この新興国を牛耳っているのが、
良く分かりました。

 満州事変の首謀者の一人、関東軍の
石原莞爾作戦参謀は、満州から去って
おり、仙台歩兵第四連隊長をしていました。

 同じく満州事変を画策したといわれる
板垣征四郎参謀長は、満州国執政顧問や、
軍政部最高顧問、関東軍参謀長を歴任して、
隠然たる力を持っていました。

 山口少将は、満州国をつぶさに視察し、
問題の深さを悟りました。「アメリカは満州国を
否定しているが、関東軍は手放すことは
ありえない。この溝だけは、決して埋まる
ことはない。」と日米関係の前途は険しいと
感じました。

 満州国から帰還した山口少将は、7月19日、
日本郵船の氷川丸で横浜港を発ちました。

(追記)
 氷川丸は、1930年に、北米航路に就航した
豪華客船です。1932年に来日したチャップリンは、
帰路氷川丸に乗って太平洋を横断しています。

 戦時中は、海軍に徴用され病院船に改造
されました。煙突や両舷に赤十字のマークを
つけた氷川丸は主として南方で戦傷病者の
収容と治療に当たりました。戦後は復員船と
しても働いています。

 1953年、再び客船に改造され、1960年に
引退後、現在は、横浜の山下公園前に係留され
一般公開されています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 再婚 [山口多聞]

 1934年の年が開け、おそと気分も
抜け切らない中、山口少将は、華燭の
典をあげました。

 初婚と同様に海軍大臣宛に結婚願を
提出し、認許という手続きを踏んでの
結婚でした。

 再婚相手は、四竈仁邇(しかまじんじ)氏の
三女の孝子氏でした。四竈仁邇氏は宮城県
出身の教育家で、県盲啞学校長を務めて
いました。口添えをしたのは、山本五十六
長官でした。

 山本長官自信、四竈家の仲人を受けて
結婚しており、この縁で、孝子氏を山口少将に
紹介していました。

 四竈仁邇氏は、4人の娘がおり、全員
職業軍人に嫁いでいます。山本長官自身、
才媛の孝子氏を気に入っており、大学に
進むよう勧めています。

 山口少将42歳、孝子氏28歳で、前妻敏子氏
より3歳年下でした。そして、山口少将が新婚
生活に慣れかけた5月6日、父の宗義氏が
死去しました。

 新婚から半年ほどたった6月1日に、
山口少将は、在米大使館附武官に補され
ました。半年足らずの新婚生活に別れを
告げて、アメリカに行くことになりました。

 この当時、アメリカとの関係は、満州事変で
悪化していました。山口少将は、アメリカに
渡る前、中国と満州国の現況を視察する
ように命じられました。

 上海に降り立った山口少将は、第一次
上海事変の痕跡が残りながら近代的な
ビルが林立し、国際都市として活況を
呈していました。

 北平(ペーピン。北京のこと)は猛暑
でした。蒋介石率いる南京国民政府が
10年間だけ、北平と呼んでおり、日本も
倣っていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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