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山口多聞 アメリカ駐在員 [山口多聞]

 山口少将は、海軍水雷学校の高等科学生時代、
「06号」潜水艦の艦長を兼務していました。さらに、
在学中、第一次世界大戦の功により勲四等旭日
小綬章と金400円を賜っています。

 1920年11月末に海軍水雷学校高等科学生を
卒業した山口少将は、28歳になっていました。
翌年の1921年2月、山口少将は、アメリカ
駐在員に選ばれました。

 客船で太平洋を横断した山口少将は、
大陸横断鉄道を使い、ワシントンの日本
大使館に出頭しました。この時の大使は、
後の幣原喜重郎首相でした。

 そして、この大使館には、山本五十六長官も
中佐として赴任していました。山本長官は、
小柄で筋肉質、日本海海戦でなくした2本の
指を隠すこともなく振舞っていました。傷跡は、
武勲だと考えていたようでした。山口少将は、
山本長官の薫陶を受けました。

 この当時、日本はアメリカから石油を
輸入しており、アメリカが石油をストップ
すると、日本は麻痺するという状況でした。

 海軍の艦船もアメリカの石油で動いており、
日本の繁栄を望むなら日米関係を悪化
させてはならないというのが、自明の理
でした。

(追記)
 山本長官は、山口少将の2年前1918年に、
駐在を命じられ、ボストンに赴任後、マサチュー
セッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学で
語学研修生として学んでいます。

 ボストンにいたときに、チェッカーの達人から
手ほどきを受け、1週間後にその達人を破り、
ホテルで奢らせる。などして、在留邦人の
間でもちょっとした名物男になっていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 海軍水雷学校の高等科学生 [山口多聞]

 山口少将が、「Uボートを回航せよ」という
命令を受けたのと同時期に、特務艦関東が
派遣されてきました。

 派遣されてきた理由は、山口少将が受けた
命令と同じものでした。ドイツから手に入れた
戦利艦のうち、日本に割り当てられたUボート
7隻をイギリスからマルタ経由で回航すること
でした。

 山口少将は、回航員と一緒にポーツマス港に
行き、接収していたUボートに乗り込みました。
山口少将が担当したのはU46号で、日本名は
「02号」でした。排水量750tで艦橋前には
大砲も着いていました。

 1919年1月、艦尾に日章旗が掲げられた
潜水艦はマルタ島を出港し、一路日本を
目指し、内地に着いたのは6月頃でした。
回航した潜水艦は、ドイツの戦利品として
一般にも披露されました。

 清水港艦船クラブが発行した「戦利潜水艦
観覧記念」の絵葉書には、甲板の上に乗組員が
立っている写真が使われていました。


 山口少将は、12月1日に、大尉が対象となる
海軍水雷学校の高等科学生として入校しました。
水雷科は、兵器学、発射法、操法、電撃法などを
教えていました。

 山口少将が入学した頃は、水上艦と潜水艦の
区別はなく、大正の末ごろから、潜水艦士官
(通称:どんがめ士官)になるためには、特別の
カリキュラムを受けなければならなくなっています。

 この当時、青年士官に最も人気があったのは、
戦艦の砲術学校でした。次が、大尉や少佐でも
艦長になれる、水雷艇や駆逐艦を目指す水雷
学校でした。南雲中将はこの学校の出身です。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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