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山口多聞 アインシュタイン [山口多聞]

 ここで、余談として、直接山口少将とは
関係ありませんが、理論物理学者の
アルバート・アインシュタインのことを
紹介しています。

 山口少将が帰国の途に就く前年の
1922年に、アインシュタインはノーベル賞を
受賞しています。

 アインシュタインは、ノーベル賞を授与
されるとき、日本を訪問中だったので、
代理人が出席しているようです。
アインシュタインは、日本贔屓
でした。

 ユダヤ系ドイツ人だったアインシュタインは、
1933年10月、ヒトラー政権下でユダヤ人排斥が
強まったことから、アメリカに亡命し、山口少将が
去った10年後に、山口少将が学んだプリンストン
高等研究所の教授として着任しました。

 やがて、ドイツがヨーロッパを席巻する中、
アインシュタインは、1939年8月2日、科学者
レオ・シラードの要請を受けて、悩み抜いた末、
ルーズベルト大統領に原爆開発を促す手紙に
署名しています。

 ナチスドイツが陥落する2ヶ月前に、再び
シラードが持参した大統領への手紙に、著名
しています。それは、日本に原爆を使うことを
阻止するためのものでした。

 しかし、ルーズベルト大統領は、手紙を
読むことなく他界しました。トルーマン
大統領が、広島と長崎に原爆投下を
したとき、アインシュタインは、絶望の
声をあげました。

 アインシュタインは、戦後もプリンストンに
住み続け、1955年4月18日、プリンストン
病院で死去しています。

(追加)
 原爆の投下については研究の余地はある
ようですが、個人的には、このような物を使う
まで降伏しなかった日本側に、大きな責任が
あると考えています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 4隻の空母 [山口多聞]

 ワシントン条約により、戦艦には悲喜
こもごものドラマが展開されました。まず、
建造中の土佐は、爆破実験に使われ、
土佐沖に沈められています。

 さらに、建造中の赤城と天城が空母に
改造されることになりました。しかし、天城は、
横須賀の海軍工廠で改造されている時に、
関東大震災にあい、大破しました。

 天城が廃棄処分になったことで、廃棄
処分することに決まっていた加賀が、
空母として生まれ変わることに
なりました。

 当初、海軍は、建造が赦される基準
排水量の範囲で、3隻の空母を計画
していました。

 赤城と加賀の2隻が決まったので、
残るは1隻となりましたが、ここで奇抜な
アイデアとして、基準排水量の半分の空母を
2隻建造することにしました。これが、蒼龍と
飛龍でした。

 飛龍は、完成するときに、ワシントン軍縮
条約の期限が切れることから、蒼龍より、
幾分大きめに造られました。

 海軍軍縮条約で生まれたといえる4隻の
空母は、真珠湾攻撃参加し、ミッドウェー
海戦で撃沈するという運命に見舞われ
ました。

 なお、山口少将は、ワシントン軍縮条約の
締結の時、プリンストンから、ワシントンに
駆けつけ、裏方として働いています。

 この時、ニューヨークに赴き、三菱銀行の
ニューヨーク支店長をしていた兄に、案内して
もらいながら、摩天楼を歩いています。

 山口少将は、2年間の駐在を終えて、
1923年3月に帰国の途に就きました。
そして、6月15日、戦艦長門の水雷科
分隊長を命じられています。山口少将に
とって、水雷は専門なので、もってこいの
部署でした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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