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山口多聞 統帥権干犯 [山口多聞]

 6.97割という妥協案に対し、海相は
アメリカに譲歩させるべきと主張しましたが、
若槻全権は、これ以上の会議の引き延ばしは
出来ないと判断しました。

 浜口内閣は、財政緊縮政策を打ち出し、
1月には経済改革の一環として金解禁に
踏み切っていました(結果としてこの政策は、
昭和大不況を招く元凶となりました)。

 財政緊縮のため、突出した軍事費削減は
不可欠でした。若槻全権は、6割をごり押し
するアメリカにここまで譲歩させただけでも
収穫だと考えていました。

 そこで、請訓の電報を海軍省と軍令部に
打電しました。しかし、軍令部は、あくまで
「7割を死守せよ。受け入れられない場合、
決裂もやむなし。」と随員に打電してきました。

 この打電を受け、軍令部の代表は全権の
説得に当たりました。山口少将は、全権の
判断に従うしかないと考えていました。

 浜口内閣は閣議を開き、ワシントン会議の
時の全権大使、幣原喜重郎前全権にも意見を
求めました。即刻飲むべしというのが、幣原
前全権の意見でした。海軍省も、受諾
やむなしという考えでした。

 政府は軍令部の反対を押し切り、受諾する
ように回訓しました。4月22日、ロンドン軍縮
条約の調印が、セント・ジェームズ宮殿で
行われました。国民の多くは、好意的に
受け入れました。

 しかし、政友会の鳩山一郎氏の国防は
統帥権に属するものであり、政府が軍令部の
反対を押し切って調印したのは不当であるという
統帥権干犯問題を持ち出しました。

 鳩山氏は、政争の道具として思いついたもの
ですが、これが、軍令部に拡大解釈の機会を
与えてしまい、軍部の中で一人歩きすることに
なりました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 ロンドン軍縮条約 [山口多聞]

 1925年12月25日に、大正天皇が
崩御し、年号は昭和となりました。
平和を願う昭和とは名ばかりで、時代は
軍国主義の激流に呑まれていきました。

 1927年11月15日、山口少将は、
海軍軍令部に出仕しました。12月10日に、
中佐に昇進し、翌年の2月20日、山口少将は、
軍令部参謀になり、国防計画に関わることに
なりました。軍令部部長は、後の鈴木貫太郎
首相でした。

 1929年9月下旬になり、山口少将は、
アメリカ出張を命じられました。目的は、
ロンドン軍縮条約に関する情報収集でした。

 ワシントンに着いた直後の10月24日、
ニューヨークの株価が大暴落し、大恐慌の
波が世界に広がっていきました。

 日本は、2年前から金融恐慌になっており、
町には失業者があふれていました。疲弊
していた日本経済は、恐慌の影響をもろに
受け、出口の見えない不景気が続きました。

 このような中の1930年1月21日にロンドン
軍縮条約が始まりました。山口少将は、全権
委員随員を仰せつかっていました。イギリスは、
マクドナルド首相、アメリカはスティムソン国務
長官、日本は、若槻礼次郎前首相が全権でした。

 海軍は、左近司政三中将、次席は山本五十六
少将でした。しかし、同じ海軍ではあっても、
海軍省と軍令部は立場が違いました。
軍令部は、「7割は譲れません。」と
主張していました。

 山本長官は、「軍令部の人間は、海軍
軍人であり、日本人だろう。何が本当に
大切なのか考えてみたまえ。」と諭して
います。

 そして、交渉は難航したものの、補助艦
全体の割合を6.97割とするという
妥協案が出来ました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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