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山口多聞 浜口内閣総辞職 [山口多聞]

 6月10日、末次軍令部次長は、この
地位から降り、同日、加藤寛治軍令部
部長は、政府弾劾の上奏文を、帷幄
上奏(閣議を経ないで直接天皇陛下に
上奏すること)で行い、辞表を奉呈しました。

 11月14日朝に浜口首相は、岡山県で
行われている陸軍大演習を陪観するため、
東京駅に姿を現した頃、群衆の中から
凶弾を浴びて倒れました。

 犯人の男は、2発目を撃つ前に警察に
取り押さえられました。男は右翼団体
「愛国社」の一員でした。

 病院に運ばれた浜口首相は、一命を
取りとめましたが、3月に帝国議会に
登院した時はやつれ果て、ライオン宰相と
呼ばれた頃の面影はなくなっていました。
そして、翌月に内閣は総辞職しました。

 浜口前首相は、8月に死去しました。
割腹自殺、帷幄上奏、首相遭難と世情は
騒然となりました。やがて、右翼と軍部による
テロが横行するようになっていきました。

(追記)
 右翼は、軍令部と呼応していました。
軍令部が、「7割を死守し、受け入れられない
なら、決裂もやむなし。」という政府に圧力を
くわえた時、軍縮条約に反対する国民大会を
芝公園で開いていました。

 右翼は、愛国的な発言や、天皇陛下万歳と
いったことを口にしていますが、実態は、
日本を滅ぼせという活動をしている
左翼と全く変わらない団体だと
いえます。

 このことは、左翼の巨人といえる近衛文麿
首相が喝破しています。右翼と左翼は、主張が
正反対だから争っているのではなく、元が
同じの身内同士だからこそ、仲が悪いと
いえます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 批判をこめて自刃 [山口多聞]

 1930年5月18日、若槻全権団は、
東京駅前を埋めた市民の歓呼の声に
迎えられました。パナマ帽子を振る波が
広がり、歓迎などと記した多数の幟が
風になびいていました。


 翌日深夜、神戸発東京行きの急行列車が
闇夜を走っていました。翌日の5月20日の
午前3時半ごろ、列車は東海道線の富士駅に
差し掛かった頃、寝台係の給仕が寝台車から
鮮血が流れているのを見つけました。

 カーテンを開くと、海軍将校の軍帽を被った
乗客がパジャマ姿のまま、右手に持った短剣で
腹部を真一文字にかき切り、仰向けざまに
苦しんでいました。驚愕した給仕は、車掌に
連絡しました。

 車掌は、メモを途中の駅に投げ込みました。
メモを見た駅員は、次の停車駅の沼津駅に
電話で連絡し、応急準備の依頼をしました。

 車掌と給仕は、乗客から短剣を取ろうと
しました。すると乗客は、「触るな。この剣を
とられては、俺の死が無意味になる。」と叫び、
短剣を振り回しました。

 車掌と給仕が、必死で短剣を奪った頃、
列車は沼津に到着しました。乗客は、
駿東病院に搬送されましたが、出血
多量で死亡しました。

 乗客は、軍令部参謀の将校で、ロンドン軍縮
会議の軍令部代表でした。強硬な軍縮論者で、
ロンドン海軍条約に調印した軟弱な日本の
態度に悲憤し、批判をこめて自刃したよう
でした。病院に駆けつけた妻と子供2人は、
遺骸にすがって号泣しました。

 死んだ将校の同期の草鹿龍之介少佐が、
東京から駆けつけ、「土曜日に一緒に執務し、
正午頃別れたままなので、どうして死に
急いだのか分からない。」と記者の質問に、
悲痛な面持ちで答えていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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