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山口多聞 海軍大学校教官 [山口多聞]

 1931年9月18日、満州の関東軍は、
奉天の郊外にある柳条湖の満鉄爆破
事件を口実に、本格的な軍事行動を
起こしました。

 政府の不拡大方針にも関わらず、
関東軍は戦線を拡げ、11月には
チチハルを占領しました(満州事変)。

 1932年1月3日、錦州を占領し、
同月28日には、上海において中国の
十九路軍と日本海軍陸戦隊が武力衝突
しました(第一次上海事件)。

 十九路軍は、35000人、対する陸戦隊は
1000人であり、このままでは全滅することに
なります。そこで、海軍は第三艦隊を派遣
しました。

 上海で戦闘が続く中、関東軍は3月1日に
天津に蟄居していた皇帝溥儀を担ぎ出し、
満州国を建国しました。

 4月29日には、上海で行われた天長節
祝賀式の式場に朝鮮人が爆弾を投げ込み
ました。

 これにより、軍司令官が死去し、後に戦艦
ミズーリで降伏文書に著名した重光葵公使が
右足を失いました。

 5月15日には、海軍青年将校が首相官邸を
襲撃し、犬養毅首相に致命傷を与えました。
犬養首相は、病院に運ばれましたが死去
しました。

 これは、5・15事件として呼ばれる
ことになり、これにより政党政治は
瀕死の状態になりました。

 世情はこのように騒然としていましたが、
山口少将は、愛妻を失ったことで心の
よりどころが見つけられず、飲み歩いて
いました。

 見かねた兄弟から、「海軍軍人として
失格する」と厳しく叱責され、ようやく
立ち直ったということで、傷心のほどが
察せられました。

 11月15日に、海軍大学校教官となり、
4日後には陸軍大学校兵学教官を兼任し、
12月1日付で海軍大佐に昇任しました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 飛龍乗雲 [山口多聞]

 山口少将は、1930年7月1日、軽巡洋艦
由良の副長に任じられ、由良が停泊している
呉軍港に赴きました。

 この時の由良の艦長は、和田大佐で、山口
少将が少尉に任官して戦艦攝津に乗り
込んだ時の分隊長でした。和田大佐とは、
17年ぶりの再会でした。

 和田艦長は、「教養は昔からあったが、
ずいぶんと栄養もついたな。」と笑いました。
山口少将は、「また一緒に勤務で来て
光栄であります。」と返事しています。

 山口少将にとって、長門勤務以来7年ぶりの
艦上勤務となりました。しかし、和田艦長との
勤務は長く続きませんでした。

 10月26日の観艦式に参加した後の
11月15日に、第一艦隊専任参謀兼
連合艦隊専任参謀に任じられました。

 山口少将は、東郷元帥に近づいたと
感じていました。この時の艦隊司令官は、
山本英輔中将で、参謀長は、嶋田繁太郎
少将でした。

 山口少将は、飛龍乗雲(龍が雲に乗って
天に昇るように英傑が辞世に乗じて勢いを
得ること)の姿でした。

 しかし、私生活では試練がありました。
三男を生んだ妻の敏子氏が、永眠しました。
妻の遺骸を前に山口少将は悲嘆にくれ
ました。武人として気丈に振舞っていま
したが、失意は隠せませんでした。
弔問客は、山口少将がやつれて
見えました。

 山口少将は、これまで子供たちに軍人
勅諭にちなんだ名前を授けており、当初
三男には、忠節と父宗義から、宗忠とつける
つもりでしたが、妻が不憫だったことから、
妻から敏の字をつけ、魂だけでも一緒に
生きて欲しいと思い直しました。

 山口少将の、夫と父としての深い愛情が
表れるエピソードでした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 浜口内閣総辞職 [山口多聞]

 6月10日、末次軍令部次長は、この
地位から降り、同日、加藤寛治軍令部
部長は、政府弾劾の上奏文を、帷幄
上奏(閣議を経ないで直接天皇陛下に
上奏すること)で行い、辞表を奉呈しました。

 11月14日朝に浜口首相は、岡山県で
行われている陸軍大演習を陪観するため、
東京駅に姿を現した頃、群衆の中から
凶弾を浴びて倒れました。

 犯人の男は、2発目を撃つ前に警察に
取り押さえられました。男は右翼団体
「愛国社」の一員でした。

 病院に運ばれた浜口首相は、一命を
取りとめましたが、3月に帝国議会に
登院した時はやつれ果て、ライオン宰相と
呼ばれた頃の面影はなくなっていました。
そして、翌月に内閣は総辞職しました。

 浜口前首相は、8月に死去しました。
割腹自殺、帷幄上奏、首相遭難と世情は
騒然となりました。やがて、右翼と軍部による
テロが横行するようになっていきました。

(追記)
 右翼は、軍令部と呼応していました。
軍令部が、「7割を死守し、受け入れられない
なら、決裂もやむなし。」という政府に圧力を
くわえた時、軍縮条約に反対する国民大会を
芝公園で開いていました。

 右翼は、愛国的な発言や、天皇陛下万歳と
いったことを口にしていますが、実態は、
日本を滅ぼせという活動をしている
左翼と全く変わらない団体だと
いえます。

 このことは、左翼の巨人といえる近衛文麿
首相が喝破しています。右翼と左翼は、主張が
正反対だから争っているのではなく、元が
同じの身内同士だからこそ、仲が悪いと
いえます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 批判をこめて自刃 [山口多聞]

 1930年5月18日、若槻全権団は、
東京駅前を埋めた市民の歓呼の声に
迎えられました。パナマ帽子を振る波が
広がり、歓迎などと記した多数の幟が
風になびいていました。


 翌日深夜、神戸発東京行きの急行列車が
闇夜を走っていました。翌日の5月20日の
午前3時半ごろ、列車は東海道線の富士駅に
差し掛かった頃、寝台係の給仕が寝台車から
鮮血が流れているのを見つけました。

 カーテンを開くと、海軍将校の軍帽を被った
乗客がパジャマ姿のまま、右手に持った短剣で
腹部を真一文字にかき切り、仰向けざまに
苦しんでいました。驚愕した給仕は、車掌に
連絡しました。

 車掌は、メモを途中の駅に投げ込みました。
メモを見た駅員は、次の停車駅の沼津駅に
電話で連絡し、応急準備の依頼をしました。

 車掌と給仕は、乗客から短剣を取ろうと
しました。すると乗客は、「触るな。この剣を
とられては、俺の死が無意味になる。」と叫び、
短剣を振り回しました。

 車掌と給仕が、必死で短剣を奪った頃、
列車は沼津に到着しました。乗客は、
駿東病院に搬送されましたが、出血
多量で死亡しました。

 乗客は、軍令部参謀の将校で、ロンドン軍縮
会議の軍令部代表でした。強硬な軍縮論者で、
ロンドン海軍条約に調印した軟弱な日本の
態度に悲憤し、批判をこめて自刃したよう
でした。病院に駆けつけた妻と子供2人は、
遺骸にすがって号泣しました。

 死んだ将校の同期の草鹿龍之介少佐が、
東京から駆けつけ、「土曜日に一緒に執務し、
正午頃別れたままなので、どうして死に
急いだのか分からない。」と記者の質問に、
悲痛な面持ちで答えていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 統帥権干犯 [山口多聞]

 6.97割という妥協案に対し、海相は
アメリカに譲歩させるべきと主張しましたが、
若槻全権は、これ以上の会議の引き延ばしは
出来ないと判断しました。

 浜口内閣は、財政緊縮政策を打ち出し、
1月には経済改革の一環として金解禁に
踏み切っていました(結果としてこの政策は、
昭和大不況を招く元凶となりました)。

 財政緊縮のため、突出した軍事費削減は
不可欠でした。若槻全権は、6割をごり押し
するアメリカにここまで譲歩させただけでも
収穫だと考えていました。

 そこで、請訓の電報を海軍省と軍令部に
打電しました。しかし、軍令部は、あくまで
「7割を死守せよ。受け入れられない場合、
決裂もやむなし。」と随員に打電してきました。

 この打電を受け、軍令部の代表は全権の
説得に当たりました。山口少将は、全権の
判断に従うしかないと考えていました。

 浜口内閣は閣議を開き、ワシントン会議の
時の全権大使、幣原喜重郎前全権にも意見を
求めました。即刻飲むべしというのが、幣原
前全権の意見でした。海軍省も、受諾
やむなしという考えでした。

 政府は軍令部の反対を押し切り、受諾する
ように回訓しました。4月22日、ロンドン軍縮
条約の調印が、セント・ジェームズ宮殿で
行われました。国民の多くは、好意的に
受け入れました。

 しかし、政友会の鳩山一郎氏の国防は
統帥権に属するものであり、政府が軍令部の
反対を押し切って調印したのは不当であるという
統帥権干犯問題を持ち出しました。

 鳩山氏は、政争の道具として思いついたもの
ですが、これが、軍令部に拡大解釈の機会を
与えてしまい、軍部の中で一人歩きすることに
なりました。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 ロンドン軍縮条約 [山口多聞]

 1925年12月25日に、大正天皇が
崩御し、年号は昭和となりました。
平和を願う昭和とは名ばかりで、時代は
軍国主義の激流に呑まれていきました。

 1927年11月15日、山口少将は、
海軍軍令部に出仕しました。12月10日に、
中佐に昇進し、翌年の2月20日、山口少将は、
軍令部参謀になり、国防計画に関わることに
なりました。軍令部部長は、後の鈴木貫太郎
首相でした。

 1929年9月下旬になり、山口少将は、
アメリカ出張を命じられました。目的は、
ロンドン軍縮条約に関する情報収集でした。

 ワシントンに着いた直後の10月24日、
ニューヨークの株価が大暴落し、大恐慌の
波が世界に広がっていきました。

 日本は、2年前から金融恐慌になっており、
町には失業者があふれていました。疲弊
していた日本経済は、恐慌の影響をもろに
受け、出口の見えない不景気が続きました。

 このような中の1930年1月21日にロンドン
軍縮条約が始まりました。山口少将は、全権
委員随員を仰せつかっていました。イギリスは、
マクドナルド首相、アメリカはスティムソン国務
長官、日本は、若槻礼次郎前首相が全権でした。

 海軍は、左近司政三中将、次席は山本五十六
少将でした。しかし、同じ海軍ではあっても、
海軍省と軍令部は立場が違いました。
軍令部は、「7割は譲れません。」と
主張していました。

 山本長官は、「軍令部の人間は、海軍
軍人であり、日本人だろう。何が本当に
大切なのか考えてみたまえ。」と諭して
います。

 そして、交渉は難航したものの、補助艦
全体の割合を6.97割とするという
妥協案が出来ました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 草鹿参謀との図上演習 [山口多聞]

 草鹿参謀が戦後に書いた手記に、山口少将と
卒業前に大規模の兵棋演習と図上演習を
行った時のことを記しています。

 この時、山口少将が青軍指揮官(味方)、草鹿
参謀が赤軍指揮官(敵軍)として行っています。
結果は、どちらも、草鹿参謀の方が有利となった
としています。しかし、意表をつくようなことをして
いたので評判は芳しくなかったとしています。

 海軍大学校を終了するまでの2年間、山口
少将は、夫婦水入らずの時間を過ごしました。
愛妻がこしらえてくれる手料理をたいらげ、
体は丸くなりました。幸せ太りであり、
同時に精神的にも丸くなっていました。

 1925年4月3日、長女が誕生しました。山口
少将は、愛妻家として知られていますが、長女
誕生以降は、子煩悩も加わりました。翌年の
8月23日には、長男も生れています。

 この年の12月1日に、海軍大学校を優等で
卒業した山口少将は、第一潜水戦隊参謀と
なっています。

(追記)
 著者の松田氏は、上記の図上演について、
これだけではどのような海戦を想定したもの
なのか分からないし、本当に草鹿参謀が
勝ったのかは知るよしもないとしています。

 しかし、戦後に書いた手記ということを
考えれば、ミッドウェー海戦のことを意識して
いないわけはなく、これはずるい記述では
ないかとしています。個人的に同意見です。

 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦のことを
考えると、草鹿参謀が有能な戦術家とは
到底思えません。

 図上演習は、机上の空論と化したものも
少なくないとしており、机上理論では、
草鹿参謀の方が有利だったという
ことだと思います。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 海軍大学校 [山口多聞]

 1924年12月1日、山口少将は、少佐に
昇任し、同日付で海軍大学校第24期甲種
学生となりました。

 海軍大学校は、1888年に東京の築地に
建てられ、後に目黒に移転しました。他の
術科学校と異なり、選抜された士官に
少数精鋭主義で、高度な学術を与える
海軍戦術の最高学府でした。

 日露戦争で連合艦隊司令部参謀を務めた
秋山真之中佐が、海戦前に大学校の教官として
戦術研究を行い実戦に活かしています。のちに、
ハワイ作戦特別図上演習などの重要な作戦の
図上演習は、海軍大学校で行われました。

 山口少将が入学した甲種学生は、20人
でした。あるとき、嶋田繁太郎教官(後の
軍令部総長)が、「補助艦保有率を決める
軍縮会議に日本はいかなる案を持って
臨むべきか。」という課題を出してきました。

 山口少将は、7割を主張すべきとし、この時
入学していた草鹿龍之介大尉は、「海軍戦略
(アメリカの戦術家ハマンが記した著書)」を
引き合いに、同等でなければならないと
しました。

 嶋田教官は、答案が7割か同等のどちらかに
分かれていたのを見て、この2人で議論させる
ことにしました。この時の議論については、
草鹿参謀が戦後書いた手記で紹介して
います。

 この中で、我田引水ながら自分の方が理路
整然としていたが、議論はいつ決着するか果て
ないとしています。そして、嶋田教官が議論
中止を命じて、教官は8割で進めるべきと
なっていて、ずるいと感じた。としています。

 そして、この手記には、山口少将と図上
演習をしたときのことも記されていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 海軍潜水学校の教官兼分隊長 [山口多聞]

 この当時、海軍士官が結婚するには、
海軍大臣の許可が要りました。通常、
許可が下りるまでに、1週間~2週間
かかりました。山口少将は、10月30日に、
海軍大臣宛に「結婚届」を出しています。

 結婚相手は、才媛の誉れが高い河村善益氏の
5女敏子氏でした。河村氏は、旧前田加賀藩の
士族で、山口少将は、31歳、敏子氏は20歳
でした。

 長門で分隊長として勤務していた12月1日、
山口少将の元に、思いがけない辞令が来ました。
それは、どんがめ士官を育てる海軍潜水学校の
教官兼分隊長を命じるものでした。

 潜水学校は、第一次世界大戦後、潜水艦の
高い戦闘能力が認識されて、設けられました。
この当時の仮想敵国は、ロシアとアメリカでした。
この頃、日米開戦の未来小説などが売られて
いました。

 これは、アメリカでも同様で、日本との戦争を
予見する書物が広く読まれていました。日米
開戦となれば、広大な太平洋を深く静かに
潜行できる潜水艦の役割が大きくなると
考えられました。

 戦利品のUボートを日本から回航した山口
少将は、潜水艦の知識は豊富でしたが、戦艦
から潜水艦への移動となり、戸惑いがありました。

 1923年8月21日、第70号潜水艦が神戸
川崎造船所で公試運転中に沈没し、乗員
88人が殉職するという事故がありました。

 殉職者の内40人は、川崎造船所の社員と
工員でした。山口少将は、安全対策や乗員の
技能向上のために召集されたかたちでした。

 山口少将は、持ち前の熱血漢ぶりで乗員の
育成に努めましたが、1924年3月9日、第43号
潜水艦が佐世保港外で巡洋艦龍田と激突して
沈没し、重員45人が殉職するという事故が
発生しています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 ガンルーム [山口多聞]

 山口少将が乗り込んだ戦艦長門は、
1920年に呉工廠で完成した戦艦です。

 完成したのは山口少将が乗り込む3年前の
ことなので、新造艦と言えます。長門は、翌年に
完成した僚艦の陸奥とともに、日本海軍を
代表する大戦艦でした。

 軍艦には、艦長室のほかに、士官室、第一
士官次室、第二士官室、准士官室と呼ばれる
各室がありました。各室ごとに、調理室や浴室、
便所があり、食事や会議、休憩に使われました。

 第一士官次室は、ガンルームと呼ばれ、
中尉、少尉、少尉候補生が休憩したり、
食事をしたり、会議をする公室でした。

 ガンルームという呼称は、イギリス海軍に
倣った呼称と言われており、士官同士の
間で呼ばれていました。

 若い士官にとって、自由闊達、和気藹々と
過ごせるガンルーム時代は、艦上生活における
青春時代でした。

 分隊長になると、ガンルームは卒業となり、
副長や分隊長、各科の大尉以上がいる
士官室で過ごすことになります。

 山口少将が長門の着任した1923年9月1日、
関東大震災がありました。東京の下町を中心に、
関東一円に甚大な被害が出ました。東京市内
では火災が発生し、3日間に渡って燃え続け
ました。

 死者は6万人にも達したほか、流言蜚語に
よる朝鮮人虐殺という悲劇がありました。帝都
には戒厳令が敷かれ、海軍は、艦船を派遣し、
被災民の救出や搬送に当たりました。

 山口少将は、焼け野原になった東京の
下町を眺め、戦場を連想していました。
このような世情が騒然としている時に、
山口少将は、結婚しています。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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