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山口多聞 第三連合航空隊着任 [山口多聞]

 大西少将は、たまに攻撃機に乗って、
前線を空から視察していました。

 これを見た山口少将も、乗ろうとしましたが、
大西少将から、「指揮官に死なれては困る。
貴様のような重たい男を乗せたら、爆弾を
減らさなければならない。」と言われ、
乗れませんでした。

 5月21日、海南東の海口基地から、第三
連合航空隊の96式陸上攻撃機30機が
支援のため漢口にやってきました。
司令官は、山口少将や大西少将と
同期の寺岡謹平少将でした。

 寺岡少将は、中国通で第三艦隊司令部付と
して上海に駐在し、空母蒼龍や赤城の艦長や、
第二遣支艦隊司令部付を経て、第三航空隊
司令部に就いていました。

 5月26日、第一~第三連合航空隊がすべて
昼間の爆撃に踏み切りました。総勢100機ほどの
96式陸上攻撃機が、大編隊を組み、波状攻撃
しました。

 第一連合航空隊の36機は重慶の軍事施設への
爆撃を実施しました。しかし、30機ほどの
戦闘機に急襲された上、高射砲の洗礼を浴びて、
思うような成果はあげられませんでした。

 この日、大西少将が、同期3人が航空隊として
集まっているので、みんなで飲もう。ついでに、
同期の左近允尚正(さこんじょう なおまさ)大佐も
呼ぼうと提案し、異論は出なかったので、4人で
飲むことにしました。

 左近允大佐は、漢口特務機関の部長を勤めて
いましたが、階級は一つ下の大佐で、少将に
昇進するのは、翌年の10月となります。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 第一空襲部隊司令官 [山口多聞]

 兵学校同期の山口少将と、大西少将は、
握手後兵舎に入りました。すでに着任して
いた大西少将が作戦についてはすべて
心得ているので、山口少将は、聞き役に
回りました。

 1940年5月12日、第一、第二航空隊は
統合されて、第一空襲部隊となりました。
指揮官は山口少将、参謀長が大西少将と
なりました。

 本来であれば、今まで作戦を遂行して
いた大西少将が指揮官になるべきです。
人事の融通が効かないせいでこうなって
しまい、当然ながら、参謀長が実質的な
指揮を執ることになりました。

 山口少将は、准士官以上の搭乗員を
整列させて、訓示を行いました。「101号
作戦では、蒋政権の壊滅が目的である。

 たとえ兵力が半減しても、重慶に連続
猛爆撃を加える。支那事変を終息させる
気構えで作戦に当たって欲しい。」と
語気鋭く言い放ちました。

 搭乗員は、山口少将が毘沙門天(四天王に
数えられる多聞天)のように映りました。ここで、
山口少将は、注意事項を述べています。それは、
「市街地には爆弾を落とさないように。」と
いうことでした。

 各大使館があり、誤爆すれば国際問題に
なるからでした。しかし、この部分を始めて
聞いた大西少将は、むっとした表情を
しました。

 この日から、重慶に対する大規模な空爆
作戦が始まりました。当分の間、中国での
実戦経験が長い第二連合航空隊が昼間
爆撃、原隊で訓練していた第一連合
航空隊が夜間爆撃をすることに
なりました。

 これは、第二連合航空隊に配備された96式
陸上攻撃機は、高度9000mまで飛べる改良型に
対し、第一連合航空隊の航空機は、機種は同じ
でも初期型で、高度5000mしか飛べず、
敵攻撃機の迎撃を受けるからでした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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