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山口多聞 鹿屋基地に向かう [山口多聞]

 航空隊司令官就任に不安を持っている
山口少将に対し、山本長官は、「航空隊に
つくのであれば、砲術科より水雷科の方が、
転用しやすい。

 それは、潜水艦も航空機も魚雷を発射
させなくてはならないし、戦場では
斬り込み役になる。

 司令官は勇猛果敢な戦闘精神と、冷静な
判断が必要になる。日本海海戦では、艦隊
同士の決戦となったが、これからの海戦は、
飛行機が勝敗を決する。」と言い含めました。

 これを聞き、山口少将も意を決し、「お引き受け
します。」と返事しています。そして、1940年1月
15日、第一連合航空隊司令官に補されました。
水雷専門の山口少将にとって、一大転機となる
辞令でした。

 辞令をもらった山口少将は、第一連合航空
司令部のある鹿屋基地へ向かいました。辞令を
受けた翌日、阿部内閣に代わって、米内内閣が
成立しました。山口少将は、山本長官が海軍
大臣になるのかと思いましたが、吉田海相が
留任となりました。

 第一連合航空隊は、鹿児島の鹿屋航空隊と、
台湾の高雄航空隊とで編成されており、
両航空隊は、それぞれ96式陸上攻撃機を
20機ほど保有していました。

(追記)
 96式陸上攻撃機は、山本長官が、航空本部
技術部長だったときに、開発を命じた双発の
長距離陸上攻撃機でした。7人乗りで、20mm
機関銃1丁と、7.7mm機関銃4丁を装備して
いました。

 この後も改良が重ねられ、新型は航続距離
4380kmを誇り、片道だけなら、フィリピンまで
飛ぶことが出来ました。

 世界一周を成し遂げた「ニッポン号」は、96式を
改良したもので、53000kmを194時間飛行し、
世界新記録を樹立しています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 航空司令官につく [山口多聞]

 1940年、山口少将は、久しぶりに、
正月を自宅で迎えました。2ヶ月前まで、
中国南部で第五艦隊旗艦の妙高に乗り
込んで、警戒行動に当たっていました。

 前年の11月、山本長官に呼ばれた時に、
参謀になってくれるように希望していると
思っていました。

 しかし、桂島泊地に停泊していた旗艦長門を
訪れた山口少将が、山本長官から受けた命令は、
航空部隊の指揮をとって欲しいというものでした。

 山口少将は、「自分は水雷の専門で、しかも、
どんがめ士官(潜水艦の士官)です。」と返事
しましたが、山本長官からは、優秀な航空隊
司令官を必要としている旨を告げられました。

 山口少将と同期の大西少将が、第二連合
航空司令官をしており、中国中部の漢口から
連日のように出撃し、国民政府軍の基地を
叩いていましたが、一向に埒があきません
でした。

 そこで、大西少将は、山口少将が同期の
中では一番勇猛だったので、航空に転じる
ように山本長官に、希望していました。

 しかし、専門的な知識を持たない山口少将は、
勤まるかどうかと不安を口にしました。山本長官は、
「勤めてもらわんと困る。第一航空隊指揮官になって
もらうので、分からないことは、大西少将に聞いてくれ。」
と言われました。

 それでも、「いきなり司令官では、航空出身の
士官に示しがつかない。」と固辞しましたが、
少将なら司令官になって当たり前と言われ、
航空司令官につくことになりました。

 しかし、山口少将は、まだ不安を抱えており、
心から引き受けるとは言えませんでした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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