SSブログ

山口多聞 ジャワ島攻略 [山口多聞]

 ジャワ島の攻略は、上陸作戦が、2月28日に
行われることになっており、機動部隊は連動して、
ジャワ方面の艦艇、陸上基地を攻撃する任務を
担いました。

 攻略部隊は、輸送船38隻を数え、護衛に
あたる艦艇、給油艦などを合わせると、67隻を
擁する大船団でした。同攻略部隊は、2月27日~
28日にかけて、スラバヤ港を出撃した連合艦艇と
激しい海戦を繰り広げました(スラバヤ沖海戦)。

 この海戦で、日本海軍の駆逐艦が、日露戦争の
日本海海戦を彷彿させる魚雷戦を演じ、連合軍の
艦艇を壊滅させました。スラバヤ海戦で脱出した
艦艇は、バタビアを前の攻略部隊と遭遇し、
駆逐艦の雷撃で撃沈しています(バタビア沖海戦)。

 機動部隊は、ジャワ島攻略支援のため、
チラチップと、クリスマス島を攻撃し、3日後に、
スターリング湾へ帰投しました。ここで、加賀は、
パラオに停泊した時、暗礁に触れて、艦底を
損傷させ、内地に帰ることになりました。

 3月24日、別行動をとっていた第五航空戦隊の
翔鶴と瑞鶴がスターリング湾に現れ、機動部隊に
合流しました。5隻の空母を擁した機動部隊は、
スターリング湾を出港し、セイロン島を奇襲
するため、インド洋に向かいました。

 イギリス海軍は、セイロン島のコロンンボと
トリンコマリーを拠点にしていました。3月26日に、
名将として聞こえたサー・ジェームス・ソマーヴィル
大将が、コロンボに着任し、太平洋艦隊の立て直しを
図っていました。

 太平洋艦隊は、インド洋艦隊とも呼ばれており、
大艦隊を擁していました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
nice!(1)  コメント(0) 

山口少将の危惧 [山口多聞]

 ポートダーウィン基地への攻撃は、基地
航空隊との共同作戦にもかかわらず、
機動部隊司令部の「空母4隻いれば
向かうところ敵なし」という錯誤を
していることに、山口少将は
危惧しました。

 このポートダーウィン空襲の際、加賀の
艦上爆撃機と、飛龍の艦上戦闘機が、
一機づつ落とされています。

 山口少将が反対した雷撃機による攻撃を
実施していれば、低空飛行して港湾に突入
することになり、激しい対空砲火でことごとく
撃墜されたと考えられました。

 これまで職務の合間に描いてきた戦略
構想をポートダーウィンの空爆で確信
すると、2月20日付で戦艦大和の司令部の
宇垣参謀長、軍令部の福留第一部長、
赤城司令部の草鹿参謀長に意見具申書を
したためました。

(大和は、ハワイ作戦直後に竣工し、
1942年2月16日付で長門に代わって、
連合艦隊の旗艦になっていました。)


 山口少将は、大西少将に南雲中将に
代わって機動部隊を指揮してもらいたいと
考えましたが、今の人事制度では、仕方ないと
あきらめ、高性能の航空機を開発し、速やかに
生産して欲しいと考えました。

 2月21日、機動部隊がセレベス島の
スターリング湾に入港した時、山口少将は、
意見具申書を軍事郵便としてさしだしました。

 ここで、第21航空戦隊を指揮している
同期の多田少将と再開しましたが、のんびり
していられませんでした。

 機動部隊は休む間もなく、必要な物資の
補給を終えると、2月25日には、スターリング湾を
出港しました。南方作戦は、シンガポールを
陥落させたことで、ジャワ島攻略に移りました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。