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山口多聞 米内内閣総辞職 [山口多聞]

 1940年1月12日、ドイツ空軍は、
ロンドン爆撃を行いました。

 しかし、大規模な戦闘には発展しません
でした。イギリスのチェンバレン首相は、
「ヒトラーはバスに乗り遅れた」と演説
しました。

 4月9日、ドイツ軍は、空軍の支援のもと、
戦車による電撃作戦でデンマークを占領し、
5月10日にはオランダ、ベルギー、ルクセン
ブルグに侵攻しました。ドイツを見くびっていた
チェンバレン首相は国民の指示を失い、
総辞職しました。

 チャンバレン内閣の後、チャーチル内閣が
成立しましたが、ドイツの進撃はとどまらず、
5月中にオランダ、ベルギーが降伏しました。

 これをみたイタリアは、6月10日に、
イギリスとフランスに宣戦布告しました。
6月14日には、ドイツ軍はパリに無血
入城しました。

 日本では、この動きに対して軍部や右翼が、
「バスに乗り遅れるな」のスローガンを叫び、
新米英路線をとる米内内閣を糾弾しました。

 7月16日、米内内閣は、陸軍の姑息な
手段で総辞職することになり、半年間の
短命に終わりました。この後をついだのは、
近衛文麿前首相で、二度目の組閣と
なりました。

(追記)
 米内内閣が総辞職することになったのは、
畑陸軍大臣が辞任し、陸軍が、後継者推薦を
しなかったため、組閣できないという事態に
なったからでした。

 陸軍の推薦がなければ陸軍の大臣を出せず、
組閣できないというという事態は、政府が陸軍の
意向に従うしかないということになり、これは、
陸軍による革命であるといえます。

 この時点で陸軍は暴走したことになります。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 零戦登場 [山口多聞]

 1940年7月24日、日本海軍は、漢口に
到着した試作機を制式機として採用しました。

 この年は、皇紀2600年に当たることから、
末尾の零をとり、零式艦上戦闘機11型と
命名されました。零戦登場でした。

 漢口に到着した時点では改良点があり、
すぐに実戦投入するわけにはいきません
でした。漢口には、技術、整備の専門集団が
やってきて、不具合点を改良し、地上整備員を
指導しました。

 8月19日、横山大尉率いる12機の零戦が
発進しました。零戦隊は、上空で旋回しながら
陸上攻撃隊を待ちました。この日の爆撃機は、
50数機に達しました。

 零戦は、陸上攻撃機の前方と左右を固め、
突き進みました。零戦の初陣でした。96式
艦上戦闘機は、はるか手前でUターンしな
ければなりませんでしたが、零戦は、重慶上空で
戦闘しても悠々と往復できました。

 この日、陸上攻撃機が重慶上空に来ても、
1機も戦闘機が現れませんでした。零戦隊は
肩透かしを食らいました。

 翌日、進藤大尉の零戦12機が、陸上攻撃機を
護衛しました。この日は、陸軍の攻撃機も作戦に
参加し、連続爆撃で重慶の重要施設に大きな
被害を与えることができました。この日も、
敵戦闘機の迎撃はありませんでした。

 零戦はこの戦闘以降、大陸を縦横無尽に駆け
巡り、太平洋戦争前に撃墜された零戦は低空を
飛んでいて対空砲による2機のみでした。零戦の
護衛で、陸上攻撃機の犠牲はほとんどなくなって
いました。

 しかし、蒋介石の政府軍は、重慶のさらに奥地の
成都に移動していました。そのため、重慶を爆撃
しても意味はなく、9月5日で、作戦の打ち切りを
決めました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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