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山口多聞 日中戦争始まる [山口多聞]

 関東軍が軍を引き揚げた頃の7月8日未明、
五十鈴にいた山口少将は、「日本軍と中国軍が
交戦中」という緊急連絡を受けました。満州事変
以来の急変でした。

 山口手和尚が司令部に駆けつけると、事変の
内容を伝える電報が矢継ぎ早に入ってきました。
 前日の7月7日、北京郊外の盧溝橋で、夜間
演習中の日本軍と中国軍が衝突したということ
でした。この電報を受け、第三艦隊は、警戒
態勢に入りました。

 7月25日、北京と天津の間にある豊台南方の
廊坊駅で、軍用電線を修理中の日本軍が
中国軍に襲撃されたことがきっかけとなり、
3日後、日本軍は総攻撃に踏み切りました。

 陸軍参謀本部の石原莞爾第一部長は、
陸軍内では少数派意見となった不拡大を
説き、米内海相に和平実現のための協力を
求めてきました。米内海相も依存ありません
でした。

 外務省を中心に、中国との交渉案が作成され、
陸軍も8月7日に示された第八案を決定案と
することに合意しました。

 しかし、軍令部は、早期派兵を主張しました。
8月11日朝、軍令部首脳が協議し、「陸軍派遣の
準備促進」を決めました。

(追記)
 日中戦争については、始まる過程からして
不可解なことが多いといえます。盧溝橋事件に
ついては、日本軍と蒋介石の中国軍を戦わせて
疲弊させようとした共産党の陰謀というのが
有力な説となっています。

 このような事件で、国家同士の全面戦争に
なるわけはなく、これは陰で糸を引いていた
人物や組織があったとしか思えません。

 戦争は、国家の大事であり、他国や内部の
陰謀に巻き込まれたために始めるのは
愚の骨頂であり、短絡的な開戦はしては
ならないと言えます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 近衛内閣成立 [山口多聞]

 1937年2月2日、林銑十郎内閣が
成立し、海軍大臣に米内光政大将が
就任しました。

 陸上勤務を嫌っていた山本五十六長官も、
米内大将が海相ならと次官に留任しました。
山口少将は、この2人ならうまくやるだろうと
期待しました。

 五十鈴を旗艦とした第一艦隊は、3月下旬~
4月にかけて黄海を巡航し、中国沿岸の警備に
当たりました。この時点ではまだ、日中両国は
つかの間の平和を保っていました。

 林内閣は、必要な議案だけを通した
「食い逃げ解散」で衆議院を解散し、
5月31日に退陣しました。わずか
4ヶ月の短命内閣でした。

 6月4日、近衛文麿内閣が成立し、
米内&山本両名は留任となりました。
近衛首相は、46歳という若さであり、清新な
雰囲気を醸し出していました。

 同日夕方、近衛首相は、ラジオで所信を
行いました。演説の起草は、友人で作家の
山本有三氏でした。

 内容は、「真の平和と社会正義の実現の
ために、改革すべきものは進んで改革し、
日に新たに、日にまた新たなるを、期したいと
念じております。」というものです。

 しかし、6月19日には、アムール河の
カンチャス島、キンアムカ島にソ連軍が
上陸したことで、日本軍と戦闘に
なりました。

 関東軍参謀長の東条英機中将は、
参謀本部が通達した現状保持を無視し、
1個師団を送り込みました。

 そして、ウラジオストックから派遣されてきた
ソ連の砲艦を撃沈しました。政府は、米内海相
らの強い意見を受けて、ソ連との外交で決着を
図ること決め、モスクワ駐在の重光大使に交渉を
託しました。これで、関東軍は、軍を引き揚げました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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