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山口多聞 漢口基地に到着 [山口多聞]

 1940年3月30日、国民党副総裁の
汪兆銘が蒋介石と袂を分かち、日本軍の
傀儡になる南京政府を樹立しました。

 重慶に拠点を置く蒋介石は相手にせず、
欧米諸国も南京政府を認めませんでした。

 5月に入り、日本軍は、海軍と陸軍協同で、
重慶を猛爆し、国民政府の息の根をとめる
「101号作戦」を立てました。

 山口少将率いる第一連合航空隊も渡洋して、
漢口に進出することになりました。第一連合
航空隊は、「山口部隊」と呼ばれました。

 5月11日、山口部隊の48機は、東シナ海を
超えて、中国の上空に達しました。大編隊は、
上海を経由し、揚子江の上を西へ向かい
ました。山口少将は、司令官機に乗り込んで
いました。

 山口少将が、眼下を見下ろすと、緑の穀倉
地帯から、赤茶けた大地に変わりました。龍の
ようにうねった様子公の濁流がなんとも不気味
でした。いまにも、上空に飛んできて、陸上
攻撃機に絡みつきそうでした。

 この空域は戦場であり、いつ中国軍の戦闘機が
襲来してくるか分かりませんでした。幸い、無事に
湖北省にある漢口の基地へ次々と着陸しました。

 揚子江は、武漢あたりまでは大河ですが、
西方に入ると山岳地帯になり、荒々しい暴れ川と
なりました。揚子江に適した船底の浅い砲艦を
用意していましたが、重慶までいくのは容易な
ことではありませんでした。

 陸海合同による重慶爆撃は、このような
状況から、必然的に生れた作戦でした。
漢口基地には、大西司令官率いる第二
航空隊が待機していました。山口少将と、
大西少将は、堅い握手を交わしました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 摂津で爆弾訓練 [山口多聞]

 第一連合航空隊は、宮崎県日向灘で、
標的艦攝津に対する水平爆撃訓練を
行いました。

 96式陸上攻撃機は、800kg爆弾1発か
魚雷なら1本、250kg爆弾なら2発搭載
することが出来ました。日中戦争時は、
60kg爆弾12個を積んでいました。

 山口少将は、双眼鏡で訓練の様子を
眺めていました。9機編成の96式陸上
攻撃機は、3500mから爆弾を投下
しました。空気を切り裂く音が聞こえ、
9発の爆弾が摂津に襲い掛かりました。

 鹿屋航空隊は、呼吸が合った一斉投下
でしたが、命中弾はありませんでした。高雄
航空隊は、バラバラに散らばって落とし
ましたが、この内の一発が、命中しました。
皮肉な結果といえます。

 山口少将は、当たらないものだなと参謀に
声をかけました。それに対し、参謀は、
「370kmの速度で飛んでいる航空機で、
富士山の高さから、摂津のような小型艦に
当てるのは、大河に浮いた葉っぱを狙う
ようなものです。」と返答しています。

 山口少将は、この説明で、支那でも誤爆が
多いわけだと感じました。

 山口少将は、この訓練の時、摂津をいとおしげに
見ていました。山口少将は、遠洋航海から帰って、
少尉に任官した時、「戦艦摂津」に乗りこんでいます。
27年前の話でした。

 ワシントン条約で主力艦保有量が限定された際、
老朽艦の摂津は、標的艦にまわされました。巡り
巡って爆弾訓練の指揮を執っていました。

 山口少将は、これも何かの縁と思い、若かりし頃を
思い出して、感慨にふけっていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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