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山口多聞 ポートダーウィン攻撃 [山口多聞]

 ポートダーウィン空襲は、第一航空戦隊と
共同で行われることになりました。

 作戦会議では、ポートダーウィンを、第二の
真珠湾に見立てて、港内に停泊している
艦艇に魚雷攻撃をしようという案が
出ました。

 これに、山口少将は、語気を荒げて真っ向から
反対しました。理由は、①ハワイは奇襲だから成功
したが、二度は通じない。②アメリカの機動部隊を
粉砕する必要があるときに、貴重な搭乗員や航空機を
消耗すべきでない。 というものでした。

 山口少将は、真珠湾攻撃以降、海軍は、
精神のベルトが緩んでいると感じていました。
戦で最も戒めることは、敵を見下すことからくる
油断でした。海軍全体に、慢心が蔓延している
ようでした。

 山口少将の筋の通った意見に反対意見はなく、
雷撃は見送られました。


 1942年2月19日朝、南雲機動部隊の
攻撃隊が、オーストラリア本土へ出撃しま
した。指揮官は、真珠湾攻撃の時と同じ、
淵田美津雄中佐でした。

 山口少将は、第二航空戦隊が飛び立って
いくのを見て、真珠湾攻撃を思い浮かべ、
機動部隊は真珠湾の幻想にとり憑かれて
いると感じました。

 大本営発表で、国民は酔っていましたが、
山口少将は、不十分と認識していました。

 赤城、加賀、蒼龍、飛龍から飛び立った
艦上攻撃機81機、艦上爆撃機72機、零戦
36機の合計189機は、チモール海を飛び
越え、ポートダーウィン港内に爆弾を投下
しました。この攻撃で、駆逐艦2隻と輸送船
8隻を撃沈しました。

 この攻撃で、空母4隻あれば、向かうところ
敵なしと錯誤した者が、機動部隊の司令部に
いました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 第21航空戦隊 [山口多聞]

 山口少将は、第21航空戦隊の基地を
訪ねました。

 同航空戦隊は、大陸で戦っていた第一連合
航空隊であり、かつて、山口少将が指揮していた
航空隊でした。そして、現指揮官は、山口少将の
同期の多田少将でした。

 山口少将は、多田少将や、かつての部下の
金子大尉らと歓談しました。金子大尉は、
セレベス島メナドへ、日本海軍で始めて
落下傘による急襲作戦を敢行した横須賀の
落下傘部隊を支援していました。

 落下傘部隊を指揮していたのは、すでに
紹介しました、五十鈴の砲術長で、海軍体操
生みの親である堀内中佐でした。

 落下傘部隊は、「空の神兵」として讃えられ、
国威発揚のため、同じタイトルの歌や、アニメ
映画が製作されました。

 第二航空隊は、1月27日にダバオを
出港し、翌日パラオに停泊しました。
パラオのコロール島は、南洋庁を中心に、
日本町のにぎわいがありました。

 開戦後は、民間人の多くは、本国に引き
揚げていましたが、海軍に料理を振舞う店が
あり、故郷の気分を味わうことができました。
将兵は、久しぶりに刺身などの日本食に
舌鼓を打ちました。


 南方作戦では、部隊の通称が変わり、
部隊の異動、編入がめまぐるしく行われ
ました。第二航空隊は、連合艦隊第二
艦隊に一時的に編入されることに
なりました。

 次の攻略作戦は、チモール島でした。
チモール島は、東側が、ポルトガルの
植民地、西側が、オランダの植民地
でした。

 オーストラリアまでは、500kmほど
しかなく、ポートダーウィンの港湾都市が
ありました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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