SSブログ

山口多聞 お嬢さん [山口多聞]

 著書は、ここから1年後の1942年の
元日にとんでいます。

 山口少将は、合間を縫って、「お嬢さん」と
呼ばれていた兵士のもとを尋ねました。この
ように呼ばれていたのは、真珠湾で戦死した
蒼龍の飛行分隊長の飯田大尉でした。

 蒼龍の分隊長として零戦を率いていた時、
総明で物静か、温和な性格から、「お嬢さん」と
仇名されました。将来を担う逸材といわれて
いましたが、28歳で戦死しています。

 山口少将は、副官とともに、浄真寺の墓に
詣で、遺族を見舞いました。形見となった
恩賜の銀時計や遺影、一度も手を通さない
ままの仕付糸のついた大島紬の着物を
拝見し、最後に甲板で見送った光景を
思い返していました。

 この年の7月、飯田大尉は、同じくハワイで
散華した牧野三郎大尉、鈴木三守大尉とともに、
山本長官から感状を受けました。これにより、
飯田大尉は中佐に昇進し、真珠湾九軍神と
同様、海鷲三士官として国民に崇められ
ました。

(追記)
 飯田中佐が真珠湾攻撃の時に突入した
カネオヘ海軍基地に勤務していた兵士は、
真珠湾攻撃の翌日、散乱した飯田中佐の
遺体を拾い集めて、基地内の一角に手厚く
葬りました。

 真珠湾攻撃30周年の1971年には、
飯田中佐の突入地点に、「飯田房太大尉
顕彰の碑」が建立されました。

 1999年に、ハワイを訪れた、飯田中佐の
義理の妹に、日系人の一人が飛行帽を
手渡しました。飯田中佐が、自爆した日に、
基地近くにいた男性がひそかにしまっていた
ものでした。

 新南陽市(現・周南市)長田町には、義妹に
よる飯田記念室が設けられていました。

 2002年、靖国神社境内の、「遊就館」に
飛行帽を含む遺品が贈られています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
nice!(0)  コメント(0) 

山口多聞 矢野艦長 [山口多聞]

 1941年元旦、将官室で読書をしていた
山口少将は、誰か来ないかなと思いながら
本を閉じました。山口少将は、今年は大変な
年になるかもしれないと漠然と思いめぐらし
ました。

 その時、ドアがノックされました。入室を
許可すると、ドアが開き、矢野艦長と通信長の
岡田少佐、掌航海長の田村兵曹長が、一升瓶を
携えて、顔を赤くして現れました。すでに
かなりの量をあおっていることが見て
とれました。

 山口少将が、一人でいることに退屈していた
ところだと告げると、艦長から、「二人の勇士を
連れて来たので、無礼講でお願いします。」と
頼まれ、了承しました。

 三人は代わる代わる山口少将に杯をさしだし、
それらを受けて飲み干すと返杯しました。三人
がかりであっても、山口少将のビール腹は、
難なく受け入れていました。

 ここで、普段は堅物で通っている矢野艦長が、
余興としてカッポレを踊り出しました。しかし、
足元がふらついて怪しそうでした。ついには、
机の上に胡坐をかいて、「一献頂戴します。」と
いって頭を下げました。

 山口少将は、「謹厳一途と思っていた艦長に、
こんな隠し芸があったとは恐れいった。」と高笑い
しながら酒を注ぎました。矢野艦長は、一気に
飲み干すと、机から降り、万歳三唱の姿勢を
とりました。

 岡田少佐、田村兵曹長も同じ姿勢をとり、
「山口二航戦司令官・・・万歳。」と三人が、
揃って両手を挙げました。この後、岡田少佐が、
飲みすぎで倒れて従兵に運ばれ、矢野艦長と
田村兵曹長は、将官室を退出していきました。

 山口少将は、部屋に忘れられた一升瓶の
酒を杯に注ぎ、飲み干しました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。