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山口多聞 パラオに入港 [山口多聞]

 山口少将は、航空機が格納されていく
作業を見つめ、ため息が出るほど慣熟した
チームプレイだと感じました。鍛え上げられ、
実戦を体験した搭乗員は、たくましく見え
ました。

 蒼龍と飛龍は、それぞれ常用57機、
補用16機を搭載できました。零戦数機は、
甲板の後方に係留し、いつでも緊急発進
できる体制をとっていました。

 艦上機をすべて収容した2隻の空母は、
第23駆逐隊(菊月、夕月、卯月)に見守られ
ながら航行を続けました。第二航空戦隊は、
1942年1月17日パラオに入港しました。
パラオには、南洋群島を統治する南洋庁が
ありました。

 4日後、パラオを出撃した第二航空戦隊は、
1月23日~24日、アンボン攻略を支援
しました。アンボンは、2月7日までに、
陸海軍部隊によって、ほぼ占領され
ました。

 この占領時に、アンボン捕虜収容所で、
日本兵によるオーストラリア人捕虜への虐待が
あったとして、戦後、同地で軍事裁判が開かれ、
日本人13人が、銃殺刑になっています。

 第二航空戦隊は、1月25日に、ミンダナオ島の
ダバオに入港しました。ダバオ航空基地には、
第11航空艦隊第21航空戦隊が、進出して
いました。

(追記)
 第11航空艦隊は、南雲機動部隊が空母6隻で
真珠湾攻撃を行った関係で、航続距離が長い
双発の陸上攻撃機で編成されていました。

 第11航空艦隊は、21~23航空戦隊の
3つの航空隊で編成されていました。この内、
第22航空戦隊は、マレー作戦に投入され、
マレー沖海戦で、イギリス海軍に攻撃を加えて
います。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 南方作戦 [山口多聞]

 第二航空戦隊は、真珠湾攻撃とウェーキ島
空爆を終えて、呉に軍港に停泊していました。
山口少将は、蒼龍の甲板に総員を集め、
宮城を遥拝しました。

 つかの間の休息であり、おそと気分に浸って
いるわけにはいきませんでした。日本は、ドイツ・
イタリアを覗いた欧米列強を相手に戦争をして
いました。山口少将は、東京へ戻れないので、
蒼龍から家族に年賀状をしたためました。

 この当時は、郵便物は、軍事郵便であり、
検閲済みの消印が必要でした。ただ、検閲
するのは司令官であり、山口少将は、自分で
検閲済みに印を押しています。本人の検閲
なので、自然体で書いていました。


 機動部隊は、アメリカの太平洋艦隊が、捲土
重来を期して進撃してくる前に、南方作戦を
支援することになりました。

 本隊となる、第一航空隊と第五航空隊は、
1月5日に、呉を出港し、ラバウル攻略支援の
ために、南方へ向かいました。

 第二航空戦隊は、呉で補給を済ませた後、
1月11日に、連合艦隊が停泊する桂島泊地に
回航しました。

 山口少将は、山本長官に挨拶をし、外洋に
出撃しました。アメリカ軍の潜水艦が、日本
近海までやってきて、真珠湾の仇を討とうと
虎視眈々と艦艇を捜し求めているはずでした。

 九州東方の海上に出ると、九州各地の
基地で、訓練を積んできた艦上機が飛来
してきました。巨大な巣に帰る海鳥のように
艦攻、艦爆、艦戦の編隊が、エンジンの
唸りをあげて旋回しました。

 上空で旋回していた航空機は、順番に着艦し、
すばやく昇降機に運ばれました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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