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山口多聞 大陸での戦争の長期化 [山口多聞]

 第二次上海事変に対し、陸軍の派遣軍が
上海に着くまでに、陸戦隊と居留民を護るため、
米内海相は、台湾の台北基地に配備されていた
双発の96式陸上攻撃機を使用することを決断
しました。

 台風の影響があったものの、悪天候を
ものともせず、大編隊が東シナ海を北上
しました。両翼に日の丸がついた攻撃機の
編隊が、上海上空に達した時に、地上にいた
陸戦隊や居留民は喝采をあげました。

 世界中を驚嘆させた渡洋爆撃でした。

 中国軍の戦闘機が迎撃に向かってきたことで、
日本海軍は本格的な空中戦を体験しました。
攻撃隊は、杭州や広徳などの飛行場や
軍事施設を爆撃して帰還しました。

 盧溝橋での日中両軍の衝突からはじまった
戦火は、北支事変と呼ばれましたが、9月2日
以降は、支那事変に統一されました。

 この他にも、日支事変や日華事変という
呼称もありましたが、今日で日中戦争と
表記されます。事変と言いながら、実態は
戦争といえます。

 山口少将が乗る五十鈴は、8月に揚子江
方面の警戒活動を行い、一旦佐世保に
帰還した後、9月中旬から中国沿岸に
展開しました。その間、中国大陸では、
泥沼の戦争が広がっていました。

 1939年が明けた1月4日、近衛内閣が
総辞職し、平沼騏一郎内閣が成立しました。
米内海相ら閣僚5人は留任しました。しかし、
中国との和平は進まず、戦争の長期化は
避けられなくなりました。

 現地軍は、南京、武漢と国民政府の拠点を
占領しても、蒋介石政権は、広大な中国を
移動していきました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 第二次上海事変 [山口多聞]

 軍令部で、「陸軍派遣の準備促進」を決めた
8月11日の午後、巡洋艦出雲を旗艦とした
第三艦隊は、上海に入港し、陸戦隊が
上陸しました。

 陸戦隊の上陸に対して、中国側は、6個師団の
兵を上海周辺に配備しました。翌日、第三艦隊から、
「一触即発の危機に瀕せり。」という悲痛なまでの
電報が入りました。第一艦隊第一潜水戦隊にも、
上海の危機的状況が刻々と伝えられました。

 米内海相は、不拡大の方針でしたが、8月11日に、
伏見宮軍令部総長の説得を受けていました。
米内海相は、第三艦隊の聞きの電報を受け、
四相会議に、自衛権の発動を申し入れました。
8月13日には、陸軍4個師団の派遣を決定
しました。

 この日、上海では日中両軍が戦端を開いて
いました。蒋介石は、警備総司令に総攻撃を
命じました。第二次上海事変の始まりでした。

 中国軍は、14日朝から空軍を投入し、上海港に
停泊している第三艦隊の観戦や陸戦隊本部、
日本の現地工場などを爆撃しました。

 「このままでは、上海の日本人は全滅する。
見殺しにする気か。」という海軍に対する
批判が強まりました。第三艦隊からは、
救援を要請する電報が届きました。

 陸軍の派遣軍が、輸送船で上海に着くまでに、
陸戦隊が守りきれるか分かりませんでした。艦砲
射撃は、敵味方が入り交じる上海に撃ち込む
わけにはいきませんでした。

 この状況を見て、米内海相は、軍令部と
協議の上、「残された手段は空しかない。」と
判断し、前例のない航空作戦に合意しました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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