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山口多聞 第二航空隊司令官に着任 [山口多聞]

 1940年11月1日、山口少将は、第二
航空戦隊司令官に補され、同日付で
盟友の大西少将は、山口少将の後任
として第一連合航空隊司令官となりました。

 日本海軍は、空母2隻による航空戦隊を
編成しており、第一航空隊は、戦艦主体の
第一艦隊に、第二航空隊は、巡洋艦主体の
第二艦隊に組み込まれていました。

 この時点では、空母は主役とは思われて
おらず、脇役になっていました。第二艦隊
航空戦は、空母蒼龍と飛龍、護衛の駆逐艦
3隻から成っていました。

 蒼龍と飛龍は姉妹艦として設計されましたが、
艦橋の位置が大きく違っていました。蒼龍は、
右舷煙突側、飛龍は、左舷の煙突と反対側
でした。

 蒼龍は、飛行甲板、羅針艦橋甲板、防空
指揮所甲板の三層で構成されていましたが、
飛龍は、三層の他に、上部艦橋甲板が
加わっており、一層高くなっていました。

 山口少将は、第二航空隊の旗艦である蒼龍に
乗艦しました。艦長の蒲瀬和足(かませ わたる)
大佐の案内で艦内を歩き回りました。戦艦とは
違う構造を頭に叩き込みました。

(追記)
 蒼龍と飛龍は、山口少将が漢口にいた時、
沿海の作戦に従事していました。

 10月11日に、横浜沖で紀元2600年特別
観艦式が挙行されました。98隻が参加した
大規模なもので、蒼龍と飛龍も参加して
います。

 飛龍は、インドシナ進駐作戦支援のため、
出撃しており、慌しく帰還した直後に
観艦式に参加しています。

 特別観艦式は、日本帝国海軍最後の観艦式
であり、最初で最後の晴れ舞台でした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 インドシナに進駐 [山口多聞]

 近衛内閣が成立した1940年9月23日、
日本軍は、前日に締結されていた日仏
協定に基づき、フランス領インドシナ
(ベトナム)に進駐しました。

 しかし、午前零時を待たずに越境して、
守備軍と交戦するという失態つきでした。

 27日には、ベルリン相当官邸において、
日独伊三国同盟条約が調印されました。
新聞紙上には、「外交の転換ここに完成」
「世界秩序確立へ」といった見出しが
躍りました。

 全国各地で、三国同盟締結を祝うパレードが
繰り広げられ、日の丸とハーケンクロイツの小旗が
打ち振られました。三国同盟成立は、日米関係の
修復を一層困難にしました。

 三選を果たしたルーズベルト大統領は、
蒋介石政権へ、1億ドルの借款を与えると
発表し、12月29日には、全国民に向けて
ラジオ演説を行いました。

 「アメリカは、建国以来の危機に直面して
いる。三国同盟の結果、もしわが国が彼らの
領土拡張政策を防げれば、対米共同行動に
出ると威嚇しているからである。

 アメリカは、民主主義国家の軍需工場と
ならなければならない。我々は、戦時と同じ
決意を持って、あらゆる犠牲を払わなければ
ならない。」と厳しい口調で、日本、ドイツ、
イタリアの枢軸国を批判しました。

(追記)
 陸軍は、米内内閣の組閣を妨害までして、
ドイツと同盟を組んで何をしようとしていたのか、
全く見えてきません。

 本来、国策としてドイツと同盟を組んで、
戦争をするというのであれば、海軍に、
インド洋を制圧して、蒋介石への補給
ルートの殲滅と、ドイツに協力して
スエズ運河を占領するはずです。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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