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山口多聞 ミッドウェー攻略作戦 [山口多聞]

 ドゥリットル爆撃隊は、山本長官がかねてから
唱えていたミッドウェー攻略作戦を、決定的な
ものにしました。

 山本長官は、真珠湾作戦が一応の成功を
収めた直後、ハワイ攻略作戦と、セイロン島
攻略作戦の研究を連合艦隊司令部の参謀に
命じていました。連合艦隊の実質的な戦略は、
黒島亀人先任参謀が練り上げていました。

 年が明けてから、連合艦隊司令部は、正式に
セイロン島攻略作戦を5月末ないし、6月に行う
ように軍令部に申し入れていました。

 しかし、軍令部は、セイロン島の攻略に反対
しました。反対したのは、占領した後の保持に
不安があるという理由でした。

 同司令部は、ハワイ攻略作戦を念頭に入れ、
その足がかりとなるミッドウェー島攻略作戦を、
練り上げました。ミッドウェー島は、小さいものの、
ハワイの機動部隊に睨みを効かせ、太平洋に
神出鬼没する潜水艦の行動を封じられるなど、
戦略上極めて重要な位置にありました。

 機動部隊がミッドウェー島を攻略すれば、
アメリカの機動部隊は奪還のため出撃せざる
を得なくなります。出撃してきたところに、決戦を
挑み、一気に壊滅させるというものでした。

 軍令部は意見が分かれましたが、永野軍令部
総長は、4月5日、連合艦隊のミッドウェー作戦を
了承しました。4月15日には、軍令部の「大東亜
戦争第二段作戦帝国海軍作戦計画」が、裁可
されました。

 ここには、ミッドウェー攻略と、アリューシャン
攻略作戦が盛り込まれました。大本営は、最初は
反対していましたが、東京空襲により、考えを
改めました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 敵機動部隊追撃命令 [山口多聞]

 連合艦隊司令部から、東方海上にいる
敵機動部隊を追撃しろという命令が入り
ました。旗艦の赤城に信号旗が揚がりましたが、
これを見た山口少将は、空しく感じました。

 現在、南雲機動部隊は、バシー海峡を
通過しているところであり、ここから2000海里も
ありました。しかも、機動部隊と一戦行うには、
台湾に寄り、食糧や弾薬などを積み込む
必要がありました。

 山口少将は、「敵は、こちらの機動部隊が
留守であることを知っていて、泥棒猫のように
やってきた。今回の空襲はこけおどしに
過ぎない。

 しかし、海軍の信頼は失墜した。本度防衛力も、
杜撰なものであることが露呈された。」と分析して
います。山口少将は、連勝で気が緩んでいる大本営と
連合艦隊司令部に渇を入れたくなりました。

 間もなく、連合艦隊司令部から、敵機動部隊は
引き揚げたので、追撃の必要はないという電報が
届きました。追撃命令は、形式的なものであることが
これではっきりしました。

 そして、山本長官の名前で、「勝って兜の緒を締めよ」
という訓電が着ました。


 1月11日、桂島出港以降、パラオ、ダバオを経て、
オーストラリア方面からジャワ、セイロンまで航行し、
いくつ物作戦をこなしてきた南雲機動部隊は、
ようやく懐かしい故国に帰る事になりました。

 4月22日、蒼龍は呉に、飛龍は佐世保に、旗艦
赤城は横須賀に帰還しました。佐世保には、一足
早く帰投していた加賀が待っていました。

 ドゥリットル爆撃隊の東京空襲は、今後も手薄に
なった本土が、空襲にさらされることになることを
示しました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 東京空襲後 [山口多聞]

 ドゥリットル爆撃隊は、夜間に大陸に
着いたことで、飛行場は灯火管制を
しており、管制灯が消えていました。
しかも、中国軍から、対空砲を
浴びることになりました。

 ドゥリットル中佐は、中国基地に強硬
着陸しましたが、不時着したり、機体から
多くのパイロットがパラシュート脱出しました。
水死で5人が死亡し、8人が日本軍の占領
地域に降下し、捕虜となっています。

 捕虜になった8人は、上海の軍事裁判で、
全員死刑の判決を出さました。ドゥリットル
爆撃隊に参加した80人の内、71人が
無事に帰国し、米中の連携をさらに
強めました。

 ドゥリットル中佐は、アメリカ国民にも
人気の宋美麗(蒋介石の妻)から勲章が
贈られています。

 一方で、東京空襲の電文を受け取った
山口少将は、脳天を割られたような衝撃を
受けました。その場にいた柳本艦長や、
第二航空戦隊幕僚らは、唇を噛みました。

 空母3隻発見という報告から、わずか
6時間ほどしか、経っていませんでした。
艦上機だとすると、東京から700海里よりも
近い距離に空母がいることになります。

 そして、続報として、爆撃したのがB25で
あることが分かりました。山口少将は、「空母に
図体のでかいB25を乗せて、太平洋を越えて
きたのか。」と驚きました。そして、アメリカ人の
負けず嫌いと、プライドの高さを改めて知ることに
なりました。

 山口少将は、東京に住んでいる家族が
心配になり、気が気ではありませんでした。

 東京空襲による被害は、全国で50人ほどで、
山口少将の家族がいる牛込区は被害が大きい
地域でした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 ドゥリットル爆撃隊 [山口多聞]

 ドゥリットル爆撃隊は、哨戒機に発見
されないように、低空飛行をしていました。
そのため、上空を飛んでいた零戦隊は
見逃していました。

 この日、東京では、大規模な防空演習が
行われていました。午後零時15分、東京
上空に侵入した一番機が、焼夷弾を投下
しました。

 空襲警報が鳴り、高角砲が撃たれましたが、
多くの人は防空演習だと勘違いしました。
高角砲は命中することなく、戦闘機も不意を
つかれたため、迎撃が間に合いませんでした。

 16機のうち13機が東京、横浜、川崎を
爆撃しました。川崎では、日本鋼管の建物や
昭和電工のガスタンクなどが破壊されました。

 残り3機は、名古屋や神戸に爆弾を落とし、
瀬戸内海から四国あたりを通って、九州の
南西海上で落ち合いました。四国沖では、
2隻の漁船に銃撃を浴びせています。

 ドゥリットル爆撃隊は、広島湾桂島上空を
通り過ぎ、飛び去っていきました。

 東京空襲は、当初の予定より10時間も
作戦が早まったので、爆撃隊が大陸に
着いた時は、夜になっていました。

(追記)
 ドゥリットル爆撃隊に対する帝都防衛に
当たっていた東部軍令部は、「敵9機を撃墜。
わが方の損害は軽微なる模様。」と発表して
います。ほとんどの国民は、ラジオ放送を
信頼し、鵜呑みにしています。

 後に大本営発表と呼ばれる、軍部と
大本営による過大戦果と、嘘に嘘を
上塗りする虚偽の成果発表は、この時が
最初と言えます。そして、この後は、終戦まで
続くことになりました。

 今も公文書の改ざんだの、ウソの報告などで
国会を賑わしており、当時の大本営発表を
笑えないといえます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 東京空襲 [山口多聞]

 アメリカ軍は、真珠湾奇襲に対する報復と、
国民の戦意高揚を目的に、大胆な東京空襲を
計画しました。

 海軍の艦上機では、航続距離が短いため、
基地から発進する陸軍の双発爆撃機ノース
アメリカンB25ミッチェルを艦載機として
飛ばせるように改装しました。

 そして、空母に引き返さずに、通り過ぎて、
蒋介石軍の飛行場に着陸することにして
いました。この作戦を引き受けたのは、
ドゥリットル陸軍中佐でした。

 パイッロットは1ヶ月の特訓で短距離
離陸法をマスターさせられました。
4月2日、ホーネットはB25を16機
飛行甲板の後方に繋ぎ止め、
サンフランシスコを出港しました。

 ホーネットは、ハルゼー中将指揮の
機動部隊と合流し、一路西へ向かい
ました。

 機動部隊は戦闘機を搭載したエンター
プライズ、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦1隻、
水雷駆逐艦8隻、油槽船2隻から成って
いました。

 4月18日早朝、日本の哨戒艇に発見された
ハルゼー中将は、計画を中止することはせず、
本来夜間爆撃だった計画を、逆に早めることにし、
昼間爆撃を敢行することにしました。

 B25の航続距離は、2170kmで、現在は
ギリギリの距離でした。ドゥリットル陸軍中佐の
乗る一番機が甲板を疾走し、ふわりと浮き上がり
ました。最後のB25が、ホーネットを発艦したのは、
午前8時19分でした。

 発艦を終えると、機動部隊は無用の長物として、
東に針路を取り、脱兎の勢いで引き返しました。
上空警戒に当たっていたエンタープライズの
戦闘機は、2隻の哨戒艇を攻撃し、撃沈して
います。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 アメリカ軍機動部隊 [山口多聞]

 4月18日午前6時半、太平洋沿岸を
哨戒しながら、釧路に帰投中だった
第23日東丸は、東方海上を見慣れない
飛行機が飛んでいるのを発見しました。

 日東丸は、東京から東方に1296km近くを
航行していました。この海域には、日本の
機動部隊はいないので、あの飛行機は、
敵の哨戒機としか考えられませんでした。

 日当丸は、「敵飛行機発見」と打電しました。
電報を受けた連合艦隊司令部は、浮き足だち
ました。山本長官は、南方作戦の隙を狙って
本土を爆撃されるということを危惧しており、
ハワイの太平洋艦隊を叩くように出張して
いました。

 ハワイ攻撃では機動部隊は健在であり、
南雲機動部隊が南方にいることを確認して、
来襲したのかもしれませんでした。日東丸から、
「空母3隻見ゆ。」という続報が届き、その後、
日東丸からの通信は途絶えました。

 山本長官は、機動部隊であることを確信し、
唇をかみました。連合艦隊では、急遽、作戦
会議を開き邀撃体制をとるように、航空隊に
命じました。

 この時、日本軍が想定していたアメリカ軍の
戦略は、航続距離の短い艦載機を使用すると
すれば、300海里まで近づかないと往復できない
と算出し、攻撃は明朝だろうとしていました。

 そこで、航続距離の長い陸上攻撃機に空母
攻撃用の魚雷を搭載して発進し、木更津
航空隊と土浦航空隊野の零戦が、護衛と
して飛び立ちました。

 この時、アメリカ軍は、日本軍が想定して
いない奇策を用いて、攻撃しようとしている
ことを知りませんでした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 MO作戦 [山口多聞]

 機動部隊は、4月9日のうちにセイロン沖を
去り、東に針路をとりました。

 この時、山口少将が気にしていた最新鋭
空母などの太平洋艦隊は、南雲機動部隊が
セイロンを空爆した前日に、補給地のアッヅ島に
入港していました。そして、空爆の報を聞き、
アッヅを出撃していましたが、遭遇せずに
帰還しています。

 南雲機動部隊は、マラッカ海峡を通り、シンガ
ポール港内に停泊している小沢治三郎中将
指揮のマレー部隊と発行信号を交わしました。
マレー部隊は、カルカッタに向かうイギリスの
補給艦や武装商船、輸送船に攻撃を加えて
いました。

 機動部隊は、ハワイ攻撃以来、息つく間もなく、
オーストラリア、ジャワ、セイロンと南方を転戦して
きました。艦艇も将兵も疲れきっていました。
そこで、一旦内地に戻って艦艇の修理や
人員補充を行うことになりました。

 機動部隊がフィリピン沖にさしかかった時、
第五航空隊の翔鶴と瑞鶴にMO作戦の
機動部隊を担うよう命令がきました。

 MO作戦は、5月中にニューギニア東南部の
ポートモレスビーを攻略することを狙ったもの
でした。

 ポートモレスビー占領後は、ニューカレドニア、
フィジー、サモアなどを押さえ、アメリカとオースト
ラリアの連絡網を遮断するというものでした。

 この作戦を聞いた山口少将は、「空母を南と
北に分けては、中途半端な作戦しかできんな」と、
東の方に去っていく翔鶴と瑞鶴の発光信号を
見やりながら、言いようのない不安にかられ
ました。

 この時、機動部隊が南方にいるときを狙って、
アメリカの機動部隊が動いていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 スピットファイヤ対零戦 [山口多聞]

 江草少佐は、零戦1機と爆撃機4機を
失う被害に、真珠湾攻撃以来の大きな
犠牲だったと感じました。そして、死に物
狂いで戦おうと思い立ち、機首を上げました。

 第一撃をかいくぐった零戦が、スピットファイアと
互角以上の戦いをしていました。持ち前の戦闘
能力を活かし、がむしゃらに放つ敵機の弾丸を
かわし、応戦しました。

 さしものスピットファイアも歴戦の搭乗員の
戦闘術に翻弄されて撃墜されていきました。
少なくとも5機に大きな損害を与え、他の
スピットファイアは、基地へ引き返して
いきました。

 スピットファイアの攻撃をかわして母艦に
帰ってきた艦上爆撃機はどれも傷ついて
いました。

 蒼龍に着艦する姿もどの姿も悲痛でした。
江草少佐は、山口少将のところに行き、
「申し訳ございません。貴重な搭乗員を
殺してしまいました。」と、謝りました。

 普段は豪気な江草少佐も、この時は肩を
落としていました。山口少将は、江草少佐の
肩をたたき、「よく戻ってきてくれた」と言葉を
かけました。

 本来ならもっと気の利いた言葉をかけて
励まそうと思っていましたが、言葉を紡げま
せんでした。

 山口少将は、真珠湾以前から猛訓練してきた
搭乗員の姿を思い出していました。そして、
ついさっき見送った空の勇者たちが
インド洋に散華してしまったと、
改めて思い返していました。

 それでも、もし、イギリス軍が戦意旺盛で、
総力を結集して死に物狂いで攻撃して
いたら、大敗を喫していたかもしれません
でした。今回は運がよかったと思って
いました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
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山口多聞 スピットファイアからの襲撃 [山口多聞]

 ハーミスが撃沈する直前、阿武隈から
飛び立っていた索敵機から、無電が
入りました。

 それは、「北方に、もう一隻空母発見。」
というものでした。

 山口少将は、「よし。」と口にしましたが、
ハーミスの攻撃隊は爆弾を使いすぎており、
攻撃に回すことはできませんでした。現状、
爆弾を搭載しているのは、赤城、蒼龍、飛龍の
一部の攻撃機のみでした。

 江草少佐は、爆弾搭載機のみで空母の攻撃に
向かう旨を打電し、索敵機の方向のあった海域を
1時間半にわたり飛んだが、空母は発見できません
でした。いたのは商船と駆逐艦のみでした。

 索敵機の見間違いと判断し、これらに攻撃を
加え撃沈しています。その後、爆弾を抱えた9機の
蒼龍機以外は、母艦目指して帰還していきました。
残った蒼龍機は、ギリギリまで粘って探しましたが、
敵の戦闘機に襲われることになりました。

 爆弾を投棄し、護衛の零戦が迎え撃ちました。
しかし、零戦一機が機銃を浴びて火達磨になり
ました。飛んできた敵機は、最新のスピットファイアの
ようでした。

 スピットファイアは、20mm機銃2丁と機銃4丁の
6丁ついており、速度は零戦機より上でした。機銃を
全て撃つと、翼全体が火を噴いたように見えました。

 99式爆撃機では、速度は200kmも遅い上に、
7.7mm機銃しかないので、戦闘能力は格段に
劣りました。スピットファイアに追いかけられたら、
相手になりませんでした。

 爆撃機は、後方の機銃を打ちながら、急降下して
逃げましたが、回避に遅れた4機が、敵機の攻撃を
受け、撃墜しました。これを見た蒼龍隊隊長の江草
少佐は、呆然としました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 ハーミス撃沈 [山口多聞]

 上空に待機していた零戦隊は、あわてて
ブレニム攻撃機に襲いかかりました。

 ブレニム爆撃機は、航続距離を延ばすため、
翼を燃料タンクにしていました。零戦の20mm
機銃が翼を撃ち抜くと、たちまち火を噴きました。
上空に飛来した9機のうち6機が撃墜されました。

 「利根被害なし。」「赤城被害なし。」という信号が
送られてきました。山口少将は、江草少佐の様に、
88.6%の命中率をたたき出すような搭乗員が敵に
いたら、機動部隊は壊滅していたと考えました。
今回は運がよかったと思えました。

 攻撃隊は、午後1時50分、ハーミスを見つけ
ました。甲板には、航空機は見られません
でした。翔鶴と瑞鶴の攻撃隊は、ハーミスに
向けて、急降下爆撃を行い、250kg爆弾を
ハーミスに命中させました。

 弾幕はなく、戦闘機もいないので、標的艦の
訓練と変わりませんでした。しかも、ハーミスは、
標的艦より当てやすい艦でした。吸い込まれる
ように爆弾がハーミス甲板に直撃し、爆裂しました。

 37発が命中し、ハーミスは内部で瓦解している
ように激しく振動し、火焔を噴き上げました。翔鶴隊に
続き、瑞鶴隊と、赤城隊、飛龍隊の一部が攻撃を
仕掛けると、ハーミスは、上から押しつぶされたように、
沈没しました。

 随伴していた大型商船と駆逐艦は、蒼龍隊の
攻撃を受け、みるみる沈没していきました。
海上には、脱出した水兵たちが、救命具を
つけたまま、浮いていました。

 彼らは、わずかに降ろすことができたカッターに
向かって泳いでいきました。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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