SSブログ

源田実参謀 ハワイ作戦計画 [源田実航空作戦参謀]

 日米交渉がゆきずまり、戦争に自信のない
近衛内閣に代わって、東条英機陸軍中将を
首相とする内閣が、10月18日に発足
しました。

 海軍大臣は、開戦派の大御所伏見宮博恭王
元帥の寵臣の嶋田繁太郎大将になりました。
嶋田大将は、山本長官の同期で、東条首相に
強調的でした。

 山本長官は、かつて及川海相に送った手紙と
同じような内容のものを、嶋田海相に送りました。
手紙は、「桶狭間と川中島を併せ行うのやむ
を得ざるハメに追込まるるしだいに御候」
という派手は文章でした。

 アメリカとの開戦に反対していながら、
ハワイ奇襲作戦はやってみたい受け取れる
ものでした。

 10月30日、南雲長官が、大石先任参謀を
伴い、長門にいる山本長官を訪ね、ハワイ作戦
計画を説明し、了承を受けています。計画の
内容は、以下の通りです。

 「開戦劈頭機動部隊を以って在ハワイの
敵艦隊に奇襲を決行し、これに致命的打撃を
与うると共に、先遣部隊(潜水艦部隊)を
もって、敵の出路を扼し、極力これを
捕捉撃滅せんとす。

 空襲の一撃を、ハワイ時間午前8時とする予定。
空襲終わらば、機動部隊は速やかに敵より離脱し、
いったん内地に帰還、整備補給後、第二段作戦
部署につく。」

 攻撃目標は、敵艦隊のみで、修理施設や、燃料
施設などを攻撃する意図ははじめからないと
言えるものです。さらに、空襲終わらば・・という
記述からは、反復攻撃をする・しないが
不明瞭です。・

 山本長官は、ハワイに攻撃したいだけで、戦果は
二の字だったといえ、戦略的に行ったものではないと
断言できそうです。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 軍令部 [源田実航空作戦参謀]

 連合艦隊の6隻の空母を使用しての
ハワイ攻撃案を、軍令部は受け付けません
でした。

 特に、ハワイ攻撃に反対していた富岡課長は、
「軍令部は、全海軍作戦を大極的に見て、
まず南方地域の確保に重点を置いており、
そのため、ハワイ作戦には空母3隻までしか
同意できない。」としています。

 黒島参謀が、「連合艦隊案が通らなければ、
山本長官は辞職すると言っている。」と奥の手を
出しましたが、富岡課長は、「戦術戦略と長官の
進退は別物であり、そのような脅しを使うなど
もってのほか。」と一蹴しています。

 黒島参謀は、仕方なく、山本長官の息の
かかった伊藤整一軍令部次長に会い、
山本長官の決意を伝えました。まもなく、
永野軍令部総長が、黒島参謀のところに
来ました。

 そして、「山本長官が、それほど自信が
あるなら、総長責任を持って、御希望通り
実施することにします。」として、ハワイ
作戦に空母6隻を使用する事が決定
されました。

 永野総長は、山本長官が辞職し、海軍の
統制が乱れ、開戦が不可能になることを
懸念していました。

 山本長官の決意(ブラフとも言えそうです)
にまけた軍令部は、参謀本部に、フィリピン
作戦に参加する陸軍の航空兵力増強を
要請しました。

(追記)
 上記のやり取りでは、富岡課長の言い分が
理にかなっているといえます。それに比べると、
伊藤整一軍令部次長の態度は、戦略を策定する
軍令部の職を全うしているのかという気に
なります。

 伊藤整一軍令部次長は、後に、大和の沖縄
特攻の時に大和に乗り込み、大和と運命をともに
していますが、この状況は、上記の決断の責任を
とったともいえます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 黒島亀人先任参謀 [源田実航空作戦参謀]

 連合艦隊先任参謀の黒島亀人大佐は、
古狸のような容貌で、陰気、無口、
愛想も協調性もほとんどない、
奇想天外を絵に描いたような
男でした。

 長門の中甲板後部左舷側にある私室の
舷窓に蓋をして暗がりの中、越中フンドシ
一つのまま、座禅をするような格好で、
一日瞑想を続けていました。食事も、
幕僚とは一緒にとらず、従者に
運ばせていました。

 幕僚らは、このような態度に好感を持つ
はずはなく、「黒島変人」、「黒島仙人」と
言っていました。山本長官のみ、「ガンジー」と
仇名をつけただけで何も言わず、特別
待遇していました。

 山本長官から、ハワイ作戦に空母全力を
持って、実施する決心に変わりはない。
自分は職を賭しても断行する決意で
あることを軍令部に伝えよと命じられた
黒島先任参謀は、10月19日に軍令部に
出頭し、福留部長と富岡課長に空母6隻の
使用案の採用を迫りました。

 軍令部は、この案を受け付けませんでした。

(追記)
 山本長官が黒島参謀を評価していたのは
訳があります。

 ガダルカナル島の攻防が激しくなり、敗色
濃厚になった時、「黒島君は、人の考えが
及ばぬところ、気が付かぬところに着眼して、
深刻に研究する。時に奇想天外なこともあり、
それをはばからず直言する美点がある。

 司令部には沢山の参謀がいるが、問題が
起きるとほぼ同じ意見ばかり出てくる。しかし、
黒島君は皆と違った角度で物を考えて出す。
これはきわめて重要なことだ。」としています。

 山本長官は、合理的で着実な案より奇想
天外な策を好んだことから、黒島参謀を
偏愛したといえます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 翔鶴、瑞鶴のハワイ攻撃参加 [源田実航空作戦参謀]

 軍令部は、10月7日、赤城、加賀、蒼龍、
飛龍の空母4隻をハワイ攻撃に使用し、
9月の南方(フィリピン、マレー、蘭印方面)
作戦に、翔鶴、瑞鶴を宛てることにして、
陸海軍中央協定案を求めていました。

 しかし、戦争の準備が遅れ、開戦が11月
中旬以降となったため、翔鶴と瑞鶴もハワイ
攻撃に参加させることができることになりました。
これを受けて、軍令部も、ハワイ攻撃を
することに決定しました。

 連合艦隊司令部は、ほぼ固まった作戦
計画を各部隊に徹底させるため、10月9日~
13日にかけて、旗艦長門で図上演習を
行いました。

 10月9日午前8時30分、山本長官は
熱意をこめて、美文調の訓示を行い、
重大時局に対処する主将の決意を
明らかにしました。

 「思うに帝国の直面する現下の情勢は、
正に未曾有の難局にして、帝国は日ならず
米英蘭等の数カ国に対し、積極的に武力
発動して、自存自衛の活路を求めるの
已むなき事態に立致らんとしつつあり。

 戦勝の途、もとより容易ならずといえども、
我において、まず必勝の兵力と待つあるの
備えを具有するとともに、遠謀遠慮画策を
密にし、将兵一心貫くに忠誠の一念を
以って、勇猛果敢、事に当たらば、
又何物かならざらんや。・・・」
といったものでした。

 10月12日に図上演習で、南雲長官や
草鹿参謀長らは、ハワイ攻撃の確実な
成功を期するために、翔鶴、瑞鶴を加えて
もらうよう要望しました。

 山本長官は、「やる限り、実施部隊の
要望する航空兵力の実現には全力を
尽くす。」として、承認しました。

 源田参謀は、上記の山本長官の言を聞き、
「名将の言行について色々聞かされてきたが、
本当の名将とはこんな人のことを言うのだろう。」と
感激したとしています。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 画期的な航空隊編成 [源田実航空作戦参謀]

 浅沈度魚雷は、16年2月に開発が
命じられ、11月30日までに100本
完備せよというものでした。第1回目の
実験は、8月22日で、この時の沈度は
19.5mでした。

 しかし、第二回目は、8月26日に行い、
沈度9.5mを記録し、この後9月15日まで、
4回実験し、全て沈度10m以内に収めました。
第二回目以降は、100%の成功率を
達成しました。

 この時の航空機の飛行高さは20mで、
沈度が10m以内となるように実験を
繰り返していました。

 10月半ば、源田参謀は、第一航空艦隊の
艦上攻撃隊がいる鹿児島基地に赴きました。
士官室に入ると、淵田少佐(この直ぐ後に
中佐に昇進)と、村田少佐が入ってきました。

 淵田少佐が、艦上攻撃機9機を10隊作る
より、艦上攻撃機4機を雷撃、5機を爆弾とし、
40機の雷撃隊と、50機の爆撃隊にする
という案を出してきました。

 源田参謀は、この案に唸り、名案だと
賛成しました。そして、その編隊で訓練を
続けるように指示しました。源田参謀は、
ハワイ空襲の望みが出てきたと元気づき
ました。

(追記)
 この当時、航空機3機で小隊と編成し、
小隊3つ9機で中隊とし、中隊3つで飛行隊と
していました。これは、日本だけでなく、列国も
この形式を基本としており、世界的な常識の
ようになっていました。

 上記の淵田少佐の案は、世界的な常識を
破り、90機の編隊でありながら、攻撃力を
増強した画期的な編成でした。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 浅沈度魚雷 [源田実航空作戦参謀]

 旗艦加賀の長官室に第一航空艦隊の
ベテラン飛行長が集まり、ハワイ攻撃を
打ち明けられたのは、洋上補給の実験中の
10月7日でした。ベテラン搭乗員たちも、
打ち明けられて緊張しました。

 南雲長官が、簡単な話をした後、草鹿
参謀長が、テーブル上の、オアフ島と
真珠湾の二つの模型を指しながら、
一同に説明しました。

 そして、最後に、「この作戦が成功するか
否かは、一にかかって雷撃が可能かどうかに
ある。山本長官もその点を非常に心配されて
いる。今から攻撃案の素案を説明させるが、
雷撃の能否について、見当をつけて
もらいたい。」と述べています。

 颯爽と源田参謀が出てきて、二つの模型を
土台にして、配備や地形などを歯切れよく
説明し、第一航空艦隊の攻撃計画の大要を
自信満々に説明しました。

 その後、飛行長は、それぞれ、雷撃、
水平爆撃、急降下爆撃、戦闘機のグループに
分かれ、攻撃の能否と研究に入りました。
最大の焦点は、地形的に困難な雷撃の
能否でした。

 源田参謀は、雷撃の最高権威である、村田少佐に
可能かどうか問いただしました。村田少佐の返答は、
「なんとかいきそうですな。」というものでした。
他の飛行長も、同意見でした。

 艦上攻撃機から、航空魚雷を深水12m以内に
走らせる事ができるかを、これから短期間の研究で
可能にしようという話でした。

 同じ頃、吉岡航空乙参謀は、魚雷の専門家と
一緒に、浅沈度魚雷の投下実験を繰り返して
いました。この時使用していたのは、
沈度10mで走らせられる安定機付
91式魚雷改二で、7月にできた
ばかりのものでした。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 北方航路 [源田実航空作戦参謀]

 ハワイ攻撃の機密保持も重要な課題でした。
ハワイまで敵に発見されずに行くにはどうするか
ということでした。ハワイ作戦図上演習で、北緯
40度は、ハワイの哨戒圏外で、大圏航路
(最短航路)からも外れていました。

 しかも、海上模様が悪く、商船航路でもありません
でした。ここは、太平洋高気圧と、局地高気圧が
ぶつかる海域で、天候不良の日が多く、天測や
燃料洋上補給を実施できる見込みもありません
でした。

 燃料補給の成功率は60%と言われ、南雲長官らは
悩みましたが、10月10日に加賀への燃料補給実験が
成功すると、南雲長官も北方航路を決意しました。

(追記)
 戦後大分経ってから、源田参謀は、南雲長官が
北方航路を決定したのは自分の説得によるものだと
公言しています。

 9月の図上演習時、海の時化があり、反対していた
南雲長官を、源義経が、鵯超えを行ったのは、鹿が
通れるなら馬も通れるとして、行った故事を引き合いに、
努力によって切り開く必要があると説得したとしています。

 この進言後、加賀の洋上補給が成功し、これに、
佐々木参謀と山口少将が賛成してくれたので
南雲長官も、北方航路の決意を固めたと
しています。

 しかし、上記は事実と大分違うといえます。
図上演習の時、南雲長官は、ハワイ攻撃自体に
反対しており、北方航路など些事といえます。

 南雲長官がハワイ攻撃を賛成したのは、大西、
草鹿両参謀が山本長官に諭された10月3日
以降です。

 洋上補給の実験が成功したのは10月10日で
あり、9月に行われた図上演習後の源田参謀の
説得が影響したとは考えられないというのが、
生出氏の意見であり、私も同意見です。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 洋上補給 [源田実航空作戦参謀]

 ハワイ攻撃をする上で、これができなければ
絶望というのが、燃料の洋上補給でした。
そこで、10月2日から、有明湾で、その
実験研究にかかりました。

 10,052tの給油船が曳航索で、42,541tの
加賀を曳航し、給油ホースをつなぎ、重油を
流しこもうというものでした。この方法は、
駆逐艦ではやったことがありましたが、
戦艦や空母のような大型艦でしたことは
ありませんでした。

 山本長官は、駆逐艦にできるなら戦艦や
空母もできるだろうとして問題にしていません
でした。しかし、実際にやってみると、曳航索が
軋んで切れ、給油ホースが切れて吹き飛んで
しまいました。

 3日~5日まで何度となくやり直しましたが、
何回やってもうまくいきませんでした。ついに
9日まで行いましたが失敗続きでした。10日に
なり、士官室で昼食を取っていた草鹿参謀が、
アイデアを思いつきました。

 それは、「給油船が曳航するのではなく、加賀が
給油船を曳航して給油したらどうか。」というもの
でした。南雲長官も賛成し、早速試してみました。
加賀の後ろから給油をすることになりましたが、
これが正解でした。

 重油が加賀のタンクにとどこおりなく流れ込んで
いくのを確認し、この後、赤城、蒼龍、飛龍、比叡、
霧島への洋上補給も試し、無事に成功しました。
これで、一つの障害が解消されました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

源田実参謀 大西参謀の本意 [源田実航空作戦参謀]

 大西、草鹿両参謀を舷門まで見送った
山本長官は、後ろから、草鹿参謀の肩を
叩き、「君の言うことは分かった。しかし
真珠湾攻撃は、僕の固い信念だ。
反対意見は言わず、実現することに
全力を尽くしてくれ。」と言っています。

 草鹿参謀は、感動して、「全力で長官の
お考えの実現に努力します。」と答えて
います。山本長官は、実働部隊の要となる
2人を、信念で屈服させました。

 佐伯航空隊の士官室に戻った大西、草鹿
両参謀は、留守番をしていた源田、吉岡
両参謀には何も話しませんでした。そのまま
来た時と同じように艦上攻撃機に乗り込み、
帰っていきました。

 帰る途中で、吉岡参謀が草鹿参謀に
問いかけ、通らなかったことを伝えて
います。

 ガダルカナルの攻防戦が激しくなっている頃、
大西参謀は、同期生から真珠湾攻撃のことを
聞かれ、「あれはまずかった。あんなことをした
ために、アメリカ国民の意思を結集させて
しまった。それが、この頃の海戦に現れて
いる。」と言っています。

 大西、草鹿両参謀は、山本長官の信念に
押された格好で承諾したものの、不本意
だったようです。

(追記)
 大西、草鹿両参謀が、陸奥にいる山本長官を
訪ねたのは、10月2日ではなく3日で、その時、
陸奥は、周防灘にいたというのが定説となって
います。

 しかし、著者の生出氏が、吉岡参謀本人確認し、
10月2日で佐伯湾だったと証言しています。
どちらが正しいのかは、確実な裏づけがないよう
ですが、吉岡参謀の回想に従うことにした
ということです。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(1)  コメント(0) 

源田実参謀 山本長官の信念 [源田実航空作戦参謀]

 大西、草鹿の両参謀は、内火艇で陸奥に行き、
打ち合わせの結論を伝えるために、山本長官に
会いに長官室に行きました。その部屋には、
宇垣、黒島、佐々木の3人の連合艦隊参謀も
同席していました。

 山本長官と意気投合してきた大西参謀は、
遠慮して、「第11航空艦隊の源兵力で
フィリピンの航空兵力を潰すことは困難
ですから、第一航空艦隊でフィリピン
航空撃滅作戦をやっていただきたい。」と
婉曲に、ハワイ攻撃中止を申し出ています。

 しかし、佐々木参謀は、「第11航空艦隊の
兵力でフィリピン作戦は支障がありません。」と
肩透かしを食らいました。そこで、草鹿参謀は、
所信どおり、「国家の興亡をこの一戦に賭ける
には投機的すぎます。」と直言しました。

 しかし、山本長官は取り合わず、「南方
作戦中に東方からやられたらどうするのか。
南方資源が手に入れば、東京や大阪が
焦土となってもよいというのか。自分が
連合艦隊の司令官である限り、ハワイ
奇襲作戦は断行する決意である。

 両艦隊は、幾多の困難はあろうが、ハワイ
奇襲作戦は、ぜひやるんだという積極的な
考えで準備を進めてもらいたい。投機的だと
いわないでもらいたい。自分のいうことも
研究してくれ。」と、信念で押し返しました。

 大西、草鹿両参謀は、長官がそこまで
言うのであれば、反対意見を取り下げ、
主旨に沿うように努力しようと折れるほか
ありませんでした。そうでなければ、職を
辞するしかありませんでした。

 大西、草鹿両参謀が、退艦する時、
山本長官は、舷門まで見送りました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。