SSブログ

巡洋艦大淀 物資搭載 [巡洋艦大淀]

 港内の桟橋に横付けした大淀は、 早速陸上の基地から、弾薬の搭載を 始めました。  機銃弾や高角砲弾はどんどん積み 込まれましたが、主砲弾は1発も 積み込まれませんでした。この港には、 15.5cm砲弾は一発もありません でした。  11月1日、早朝から弾薬や食料などの 搭載が行われました。燃料の重油は、 陸上から送油管がつながれ、補給 されました。翌日も物資の搭載作業が 続けられました。  この港に着いてから、食事と睡眠以外、 各種物資の搭載作業ばかりで、艦内は 至るところに色々なものが積み上げられ、 足の踏み場もないほどになりました。  11月3日、明治節ということで、作業は 休みになりました。手紙を出せるということで、 小淵氏は、兄へ手紙を書きました。  マニラ近くにいるということでしたので、 この手紙もすぐ届くだろうと考えました。 内地の父や兄には、書くことができません でした。  見張り当直となり、見張台に登った 小淵氏は、マニラ市街を眺めました。広い 道路の両側に見事な並木が続いていました。 美しい町のようでしたが、ほんの一部しか 見渡すことはできませんでした。  食事時になると、桟橋に原住民がゾロゾロと 集まってきました。皆、空の缶をぶら下げて いるのは、残飯をもらうためのようでした。  翌日、高角砲弾の搭載がありました。 小淵氏は、随分色々な物資を搭載するな と思っていましたが、これらは、第一遊撃 部隊に渡すための物資でした。  午後4時、桟橋を離れた大淀は、コレヒ ドール島近くに仮泊し、翌朝6時に出港 しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 マニラ港 [巡洋艦大淀]

 10月が今日で終わる日に、マニラが 近づいて来ました。艦内の蒸し暑さに たまりかねた小淵氏は、上甲板に 出てみました。  周囲には、大型の商船が船尾を上空に 向けて逆立ちしていました。1万tもある 船のようでしたが、ペンキの色も鮮やかな 船体でした。小淵氏は、なんとか救う方法は ないのかと考えていました。  以前、大淀が横須賀にいた時、二分隊 担当の内火艇が、港湾船舶に追突され、 沈んでしまったことがありました。この時、 内火艇のロープは、大淀とつながっており、 内火艇は、海中に宙吊りとなりました。  内火艇を引き上げるため、何本もの空の ドラム缶を使って浮きにし、ようやく引き 上げることができました。それを考えると、 1万tもの大型船は、手のつけようがないかも しれませんでした。  午後3時、若月を先導に、大淀はマニラ湾を 進んでいきました。左手に、コレヒドール島が 見え、それを過ぎた頃、入港用意のラッパが 鳴りました。  右手の岸壁に、一番砲塔から前の部分を ごっそりもぎ取られた重巡洋艦が見えました。 傷口を帆布で覆い、艦隊と同色のペンキが 縫ってありました。艦名を確認すると、那智 でした。  那智が繋留してあるところがキャビテ軍港で、 その脇を通過した大淀は、さらに奥へと進んで いきました。その前方左手に、物凄い数の 沈没船のマストが林立しており、船の墓場の ような場所でしたが、ここがマニラ港でした。  この港に浮いている船は、先ほど通り過ぎた 那智だけで、啾々とした港内を落陽が、 わびしく照らしていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。