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8ヶ月ぶりの帰省 [駆逐艦秋月]

 山本氏は、呉から帰る途中、学校のあった神戸に
立ち寄っています。ここで、同窓会の宿泊施設に立ち
寄っていますが、そこで会った知り合いに同情の目を
向けられ、早々に退散しています。

 神戸を出た山本氏は東京に行き、叔父夫婦に会いに
来ました。叔父夫婦は、山本氏を見て異様な感じを
抱いていましたが、山本氏の、「幽霊じゃないですよ」
という言葉で、苦笑してくれました。

 8ヶ月ぶりの帰省で、新潟の実家に戻ると、意外なことに、
両親は格別驚いた様子は見えませんでした。艦が沈んで、
同じ科の人間は、生き残りは2人だけ(この時はそう思って
いました)という話をしても、そうかいの一言で、それ以上
聞くことはありませんでした。

 山本氏の故郷の村の出身者も、戦死者が何人も出ており、
両親はいずれうちもと覚悟していたようだと評しています。
しかし、弟と面会した話には、関心が集まりました。

(追記)
 山本氏は、呉の病院に入院している時、呉の料亭で働いて
いる女性から手紙を受け取っています。このころ、秋月の機関科
は全滅と言われていたので、山本氏が生きている事を知る者は、
限られていたため、手紙を喜んでいました。

 山本氏が、退院後会いにいくと、「色白の子がこんなになって
しまってという」言って絶句されました。山本氏は、これ以来顔を
見られるのを嫌うようになっていました。この後も、数年間は、
火傷の痕を隠すこともできず、人と会うと顔を背けていました。

駆逐艦秋月、呉での入院生活 [駆逐艦秋月]

 山本氏が入院して数日後、呉を出発する前に、親に
頼んでいたお金が届けられました。今は、必要が無く
なったお金ですが、ないよりましと考え受け取りました。

 入院中、小沢中将が、機動部隊の負傷兵を見舞うと
いうことで、山本氏の病室にきました。負傷している
山本氏に無言のまま目礼しただけでした。山本氏が、
小沢中将を見たのは、これが最初で最後となりました。

 山本氏の入院生活は、退屈になってきました。そんな頃、
宝塚歌劇団が慰問に来てくれました。場所は、海軍
病院近くの、下士官集会場の劇場でした。

 山本氏は、以前宝塚を訪れたことがあり、歌や踊りを
見たことがありましたが、その頃とは印象が違って、
戦時色の強いないようになっていました。


 1944年11月22日、海軍病院から退院し、自宅療養
せよの命を受けました。2,3日呉で滞在し衣類、軍刀等を
買い求め、外出できる姿になりました。翌日、弟のいる江田島
に渡りました。8年ぶりの数分間の再開は、瞬く間に過ぎていきました。

 呉に戻り、クラスメイトに再開しました。郷里に帰る山本氏を、
呉の駅まで見送りに来てくれました。このクラスメイトは、新鋭
空母雲龍に乗艦しており、「近く出撃するが、多分ダメだ」と
いっていました。

 山本氏は、言うべき言葉がありませんでした。

(追記)
 雲龍は、雲龍型空母一番艦で、空母飛龍を元に、各所の
改良を施して建造された艦で、艦これにも登録されています。
空母としての活躍があまりなかった悲運の艦といえます。

 以前紹介した、駆逐艦潮が所属する第七駆逐隊を
率いていた小西司令官が艦長についています。

 山本氏がクラスメイトと会ってから、1ヶ月もしない
1944年12月19日に撃沈され、艦長ほか、山本氏の
クラスメイトも艦と運命を共にしました。

駆逐艦秋月、沈没の謎 [駆逐艦秋月]

 秋月の沈没原因について、多くの目撃者がありましたが、
アメリカ軍の記録も含め色々な説が出ています。

 アメリカ軍の記録は、潜水艦ハリバットが秋月に魚雷を
命中させているとしています。瑞鳳の乗員が、秋月は、
瑞鳳に向かってくる魚雷の盾になったという話をして
いることも、問題を複雑にしました。

 秋月の緒方艦長は、水柱も上がっていないし、爆弾も
落としていないと証言し、防衛庁の公刊戦史は、魚雷の
誘爆に見えるが、実際は起きていないとしているため、
原因について混乱を極めました。

 山本氏は、これらの説について検証しています。

 魚雷については、航空機からの魚雷が船尾を掠めたことは、
乗員の証言で得られましたが、潜水艦からに魚雷については、
秋月では確認できませんでした。

 爆弾については、秋月の死角から近づき投下していることが
乗員の記録から分かっています。緒方艦長の証言は、爆弾を
投下した飛行機を、見つけられなかったと解釈できます。

 山本氏は、公刊戦史が否定している、航空機爆弾による
魚雷の誘爆が原因と結論づけています。山本氏が見た破損
状況と、アメリカ軍が撮影した、爆発直後の秋月の写真を見ると、
魚雷発射管を中心に吹き飛んでおり、魚雷命中ではないことが
伺えます。

(追記)
 緒方艦長の証言をもとに、作家が作品を書いています。
この中で、機関科の少尉が辛うじて這い上がり、焼けただ
れた悲惨な姿でした。そして、「機関長以下ほとんど戦死
した」と報告したと記述があります。

 艦長に報告した機関科の少尉は山本氏のことですが、
この時山本氏の階級は中尉です。瑞鳳の乗員の話も
この作家の話ですので、調査が甘い部分があるといえ
ます。

海軍病院に入院 [駆逐艦秋月]

 10月28日に、伊勢は呉を目指して出港していき
ました。この日、救出された秋月の帰還兵の手術が
行われましたが、努力の甲斐なく亡くなっています。

 翌日、他の死者と一緒に水葬にされましたが、
山本氏は、怪我で参加できませんでした。

 敵潜水艦の攻撃をかわしながら、10月30日
午後10時30分に、伊勢は呉の軍港に到着
しました。

 桟橋には、バスが待機しており、その夜のうちに、
海軍病院に入院しました。入院から数日後、
軽症の下士官が、近寄ってきました。

 その下士官は、秋月で山本氏と同じ罐指揮所に
いた方でした。山本氏は、生き残ったのは自分だけ
と思っていたので、手を取り合って再会を喜びました。
もうひとりいた伝令は、ダメだったようです。

 秋月の機関科に所属し、艦底で戦闘配置について
いた70余名のうち、生き残っていたのは、山本氏と、
この下士官の他1名いることを戦後34年してから
分かりました。

 一方、山本氏が、罐指揮所から脱出してくるところを
見ていた兵員は、皮膚のない顔に皮膚のない手を
だらりと下げた蒸し焼きの人間が這い上がってくる
ところを見て、この人は助からなかっただろうと
43年間言い続けていました。

 山本氏は、秋月の同窓会でその話を聞き、それは
自分ですと話し絶句されています。、

(追記)
 山本氏と一緒に、秋月の罐指揮所にいたいた下士官は、
爆発が起きた時、床が抜け艦底に叩き込まれていました。
海水か侵入し、上甲板の昇降口まで海水につかっててくる中、
上甲板に必死に上がり、脱出できたということです。

 この方は、上甲板の昇降口は、普段開いていることはないので、
幸運にも爆風で開いたため脱出できたと記しています。この出口は、
山本氏が脱出するときに開けたもので、爆風ではありません。
山本氏が脱出したことで、この方も助かったということです。

伊勢に移乗 [駆逐艦秋月]

 夕刻になり、執拗な敵の空襲がやみ、太陽も沈んで
暗闇となりました。この後は、空襲の心配はなく、
潜水艦にだけ気をつけていれば良かったので、
負傷者にも、安堵の色が見え始めました。

 山本氏は、安心したためか、肉体の苦痛にさいなまされ、
吐き気にも襲われ、重油を吐き出すような状態でした。朝
まで苦痛は続き、解放してくれた機関兵を、夜通し手こず
らす羽目に陥りました。

 山本氏は、機関兵の手で、目と鼻と口のみ残して顔を
包帯で巻かれました。10月26日午後4時、駆逐艦槇は
沖縄の中城湾に到着しました。

 10月28日に、負傷者は伊勢に移れという命令が出ま
した。重傷者は担架で運ばれましたが、山本氏は自力で
歩いて行き、苦闘の跡が生々しい槇に感謝しながら伊勢
に移っていきました。

 伊勢にもクラスメイトがいるので、面会を申し込むと、来て
くれました。山本氏の第一声は、「やられたよ。褌ないか」
だったそうですが(本人は記憶がないとのこと)、聞いた
クラスメイトは、やられたよに実感がこもっており、よく
覚えていたとのことでした。

 クラスメイトは、褌はもちろん食料まで差し入れてくれました。
クラスメイトのありがたみが、身にしみました。

(追記)
 小沢艦隊に参加していた軽巡洋艦大淀は、潜水艦旗艦の
大淀型一番艦として建造され、艦これに登録されています。
格納庫が広いこともあり、艦隊旗艦や輸送任務で活躍して
います。

 レイテ沖海戦では、瑞鶴から旗艦を移譲されています。
秋月が、被弾から撃沈まで6分あったことを記録していた
のが大淀です。

 1945年7月28日の呉空襲で転覆し、戦後解体されて
います。

駆逐艦秋月、僚艦初月撃沈 [駆逐艦秋月]

 午後1時10分から始まった第三次空襲で、集中砲火を
浴びた瑞鶴と瑞鳳が撃沈しました。第四次攻撃では、
航空戦艦伊勢と日向に目標が変わりました。

 三次攻撃と四次攻撃の間に駆逐艦初月が瑞鶴の乗員を、
伊勢が瑞鳳の乗員の救助作業を行いました。

 五十鈴に曳航を命令していた千代田も曳航は断念され、
乗組員救助後自沈するように命じられましたが、実行され
ませんでした。千代田に乗り組んでいた山本氏のクラス
メイトは、艦と運命を共にしました。

 五十鈴は、初月が瑞鶴の乗員を助けているときに出会い、
情報交換をしています。その時、敵の巡洋艦隊が、初月と
五十鈴を発見し、砲撃を加えてきました。五十鈴は、初月と
連絡を取り合いながら戦場離脱に成功しています。

 初月は、単艦で重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻と
いう大艦隊に立ち向かい、応戦しました。2時間にも及ぶ死闘を
繰り広げ、午後8時57分に、一番艦の秋月が沈んだ海面の近く
で、撃沈しています。

 秋月が沈んだのは、同じ日の午前8時56分、冬月が午後8時57分で、
ほぼ同じ位置で沈んだということに、なにかの縁を感じたと山本氏は
記録しています。

 初月に乗艦していた、山本氏のクラスメイトも、千代田同様、
艦と運命を共にしています。

(追記)
 小沢中将の副官だった方が、このレイテ沖海戦の手記を残して
います。小沢中将は、瑞鶴が被弾した時、通信能力に問題が
生じ、大淀に移乗しています。しかし、この行為を、疑問だと
しています。

 司令部はすることはなく、実際、瑞鶴を退艦してから何も
していないとしています。瑞鶴に乗艦したまま、艦隊をまと
めるだけでも、初月の撃沈は防げたし、瑞鶴乗員の救助は
出来たはずだとしています。

 この方は、瑞鶴が軍艦旗を降ろして悠然と沈んだことを、
史上唯一だと言っており、この行為は海外でも評価されて
います。このような乗員の活躍があったからこそ、中将の
態度に疑問を持ったと言えます。

駆逐艦秋月、遺した鉄片 [駆逐艦秋月]

 山本氏が、士官室に戻ると、次々に負傷者が運び
込まれてきました。山本氏は、この時の空襲を、最も
長く感じていたと記しています。

 救助された艦が損傷し、機関出力が半減した事の
不安による恐怖が、時間を長く感じさせることになっ
たと思われます。時間感覚は、戦闘している人には
短く感じますが、救助された人は、一人残らず長い
と感じるものでした。

 駆逐艦槇は、第一罐室と魚雷発射官室、一番砲塔の
3箇所に直撃弾を3発浴び、戦死者31名、負傷者36名
を出しています。

 山本氏が、槇の士官室にいるとき、機関兵が解放して
くれました。夕刻に重油にまみれた戦闘服を脱ぎ捨てて
いましたが、解放していた機関兵が、洗濯してくれるという
ので渡しました。

 しばらくすると戻ってきて、上着のポケットにこのようなものが
入っていましたと、長さ10cmくらいのひしゃげた鉄片を渡して
きました。なぜ入っていたのかと考えると、秋月の爆発時に、
山本氏が閉め忘れた罐室への入口から猛烈な爆風が吹き
込んで来た時に、入ったとしか思えませんでした。

 爆風で膨らんがポケットに、てっぺんが落下してきて、奇跡的に
収まっということです。この鉄片の写真がこの本に掲載されており、
山本氏は大事にしていたと思われます。

(追記)
 軽巡洋艦五十鈴は、長良型二番艦で、艦これに登録されて
います。山本五十六や山口多聞といったそうそいうたるメンバー
が艦長をつとめたことがあります。ソロモン方面で第二水雷
戦隊を率いて活躍しています。

 ルオットで空襲を受けて損傷した時、防空巡洋艦としての
改装を施されています。レイテ沖海戦では、防空能力を活か
して、敵機を13機も打ち落とすという活躍をして帰還しました。
1945年4月に潜水艦の攻撃を受け撃沈しています。

駆逐艦秋月、駆逐艦槇被弾 [駆逐艦秋月]

 槇は、対空戦闘を続けながら艦隊を追っていました。
山本氏は、恐怖におののいていたものの、火傷の疼痛は
それほど感じていませんでした。恐怖心で、肉体の苦痛を
意識の底に押さえ込んでいたためだろうと述解しています。

 第二次空襲は、9時50分から10時30分まで続き、
その間に攻撃された千代田は、火災を起こし、航行
不能となっていました。軽巡洋艦五十鈴に、千代田
を曳航せよの命令が出て、槇も護衛につくように
命令が来ました。

 槇が第三次空襲までの合間を縫って、千代田の乗組員
救助のために近づいたところ、敵襲を受け、大轟音とともに、
硝煙が士官室まで充満してきました。山本氏は、重油でどろ
どろになった戦闘服は脱ぎ捨てていたので、下着で、室外に
出ました。

 上甲板にいくと、直径2~3mの破孔が見えました。
規模は小さいものの、秋月と同じ状況でした。直感的に、
罐室員は全員死亡したと判断しました。

 山本氏は、足は無事だったこともあり、秋月より馬力の
小さい槇の罐なら指揮はできると思い立ち、艦橋に上がっ
て行きました。

 しかし、途中で下着姿であったことを思い出し、部屋の
カーテンを巻いて行きました。この時は、これで指揮できる
と真剣に考えていました。

 艦橋に上がると、当然ながら、負傷者は下がれの鋭い
艦長の叫びを受け、士官室に戻ることになりました。
艦橋へ上がる時には忘れていた恐怖が、士官室に
行くと再びぶり返しました。

(追記)
 軽巡洋艦多摩は、球磨型二番艦で、艦これに登録されて
います。北方方面の作戦を担当しており、その際、独特の
迷彩を施されています。アッツ島沖海戦や、キスカ撤収
作戦に従事しましたが、メインは輸送任務でした。

 レイテ沖海戦では、被弾後、艦隊から離れて単独で沖縄を
目指しましたが、潜水艦の雷撃を受け撃沈しています。

駆逐艦秋月、槇に救助される [駆逐艦秋月]

 駆逐艦槇の舷側に太いロープが海面まで下がっていま
した。山本氏は、両手でロープを掴んだものの、ズルズル
と海中に落ちてしまいました。先に上がった人達のつけた
重油で滑りやすくなっていた上に、火傷の手は握力不足
でした。

 甲板からは、早く上がれという叫び声が聞こえてきました。
三度目の挑戦で、甲板まで登りきり、腰を下ろしたとたん、
推進器が回転し始めました。

 山本氏が、一番最後に救助されたということでした。
漂流している人が、全て助けられたのかは分かりま
せんでした。

 救助された負傷者は、槇の士官室に収容され、ソファー
から床まで足の踏み場もないほどで、しかも、苦痛の
うめき声がそこかしこから漏れていました。


 山本氏は、槇の士官室の床に伏せているとき、足柄に
乗艦していた時の上官が言った、「戦闘中はいいが、
被弾して基地へ帰還している時が一番怖い」という
言葉を思い出していました。この言葉で、今まで
忘れていた恐怖が襲ってきました。

 戦闘配置にいるときは集中するので、恐怖を感じることは
ありませんでしたが、今は戦闘配置がなくやることがない
ので、我が身の安全に意識が向くようになりました。

(追記)
 駆逐艦槇の石塚艦長が、秋月の乗組員を救助したのは、
艦隊からの命令ではなく、独断でした。槇は、対空戦闘を
続けながら北上中、「秋月の救助に向かう」と打電して、
秋月の沈没地点に向かっています。

 艦隊から離れて沈没地点まで30分、救助に34分要して
います。しかし、艦隊は、秋月も槇も放置して、北上を続けて
おり、秋月の救助命令を出すことはありませんでした。

 山本氏は、このことを轟沈したので生存者なしと判断
していたか、駆逐艦は消耗品とみなされたと記して
います。

駆逐艦秋月、海上での漂流 [駆逐艦秋月]

 山本氏は、水中と空中の間で、首の屈伸運動を、動物的に
続けていました。思考力は急速に衰えていき、肉体だけが
海面の現象に反応していました。

 浮力をつける努力を怠ると、たちまち地獄行きとなり、
屈伸運動をやめると、陽光が皮膚のない顔に容赦なく
照りつけました。

 少し離れたところに青竹が浮いているのを見つけました。
頼もしいと思ったものの、4,5人が群がり、たちまち沈み
ました。山本氏は、足先に触れている程度でした。溺れる
者は藁をも掴むという警句を、身を持って知ることになりました。

 敵機は僚艦を攻撃していたはずですが、敵機も僚艦も
見当たりませんでした。そう思っていたら、突然、小さな
駆逐艦が目に入りました。僚艦の駆逐艦槇でした。

 槇は、漂流者に近づいて停止しました。ところが、数分も
しないうちに、敵機が来襲し、槇は、樽などを投げ込み、
急いで離れていきました。

 樽を中心にグループが散在し、あちこちに見え隠れして
いました。山本氏は、力も尽き果てて、沈みがちになって
いました。

 その時、槇が戻ってきて、甲板から乗員が手招きして
いました。元気なものが泳ぎ出しました。山本氏も死力
を尽くして泳いで行きました。山本氏が、一番遅れました。

(追記)
 槇は、松型駆逐艦八番艦で、艦これには登録されていま
せん。松型は、樹木の名前を付けられたことから「雑木林」と
呼ばれた駆逐艦です。

 槇は、レイテ沖海戦後は、輸送任務や、大和特攻作戦の時に、
豊後水道まで随伴するといった活躍をしています。終戦まで
生き残り、復員輸送の任務に就いたあと、イギリスに引き渡され、
解体されています。

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