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横須賀の長井分校での教官任務 [駆逐艦秋月]

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 1945年4月5日頃、山本氏は、横須賀の長井分校に
着任しました。担当は、機械科の第十分隊でした。
山本氏と同じ商船学校出身者4人で、後輩生徒の
教育訓練にあたることになりました。

 ここでも、商船学校出身者と兵学校出身者の違いが
出てきました。商船学校出身者は、手紙に軍機を書いて
出してしまうという問題が発生していました。

 学校の生徒が知り得る程度内容は、重要性は高くない
ものの、検閲が一般的でない商船学校の生徒は違反者が、
多かったようです。

 しかも、規律違反者は、授業を受けさせずに反省室に
入れられた上に、規律違反は担当教官が悪いという理屈
で、山本氏も反省室に入れられるハメになりました。結局、
規律違反者が出るたびに、山本氏が、生徒の弁護をする
ことになりました。


 1945年7月ごろになると、敵軍が相模湾か九十九里浜に
上陸するという噂が流れ緊張が増してきました。山本氏は、
教官であると同時に、戦闘部隊にも所属しており、生徒を
招集して対応することになりました。

 この時は、誤報ということですぐに解散となりましたが、生徒
を招集して戦闘行為に付かせることは、戦後になって問題視
されていました。

(追記)
 ひどい規律違反の場合、教官が懲罰文を起案しなければ
なりませんでした。このようなものを書くのは大変ですが、
歴代の懲罰文を集めた事例集が発行されていました。

 その中には、酔って門限に遅れたといった内容に対し、
「酩酊その極みに達し静止すれども聞かず」といった文章が
あり、山本氏もユーモラスがあると評しています。

 このような事例集があるということから、先輩方は、規律違反を
犯した人たちが相当数いたことを示しています。しかしながら、
山本氏がいた頃は、余裕もなくなってきたのか、懲罰を与えな
ければならないような生徒は教育などせずに、前線に送って
やれと主張する人が出てきていました。


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