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駆逐艦磯風 浜風被弾 [駆逐艦磯風]

 井上氏が、大和の状況を見ていた時、「右30度、
突っ込んでくる」という声が、騒音を突き破って
聞こえてきました。

 敵機が、磯風をめがけて、急降下攻撃してきました。
磯風は、迎え撃ち、敵機を火だるまにしていました。
敵機は艦橋すれすれの海に落ち、熱い熱風が、頬を
たたきました。

 午後1時、艦橋では、大和に向かって8本の魚雷が
進んでくるのを確認しました。進路上にいた磯風を
串刺しに格好となっており、これまでかと思った
ところ、魚雷は磯風と大和の船底をすり抜けて
いきました。

 磯風は、大和と随伴していたので、回避も大和と一緒に
行っていました。敵の最重要目標は大和でも、随伴して
いる磯風も、攻撃を食うことになり、奮戦していました。

 大和は、さらに魚雷を食うことになり、速力も大幅に
落ちていました。

 このような中、磯風の中で、絶望の叫びがあがりました。
僚艦の浜風が被弾し、立ち往生しました。無残な姿で、
一瞬全員戦死かと思われました。人影が見えず、洋上
で漂っていましたが、間もなく、大爆発を起こし、真っ
二つに折れて、沈没しました。

 空襲の途中なので、救助の方策もなく、無上の空を
にらむだけでした。

(追記)
 この時の敵機の攻撃は、
第一次攻撃が、午後12時40分で260機、
第二次が、午後1時18分で120機、
第三次が、午後1時35分で150機、
第四次が、午後2時7分で150機、
第5次~8次が100機と、
延べ780機もの攻撃機により、繰り返し攻撃されました。

 この数字を見ると、日本軍は、護衛の航空機がない
劣勢の中で奮闘したといえます。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 大和被弾 [駆逐艦磯風]

 磯風が、前田艦長の操艦で、爆弾や魚雷をかわして
いたころ、井上氏は、後部舵取機室で、磯風がかわ
している様子を体感していました。機器を見れば、
艦がどのように動いているかは一目で分かりました。

 一方で、戦闘中は、後部舵取機室は、拷問部屋に
等しい空間となっていました。逃げ場がなく、外板は
3~4cmくらいしかないため、直撃しなくても至近弾で
亀裂が生じ、海水が流れ込んでこないかという心配が
ありました。

 実際、至近弾による臓腑をえぐるような衝撃が来た時、
艦が大きく傾いて転舵し、その際、ハッチから大量の
海水が流れ落ちてきました。

 さらに、艦が転舵すると、舵の主軸がピストン運動し、
うねりを上げることになります。その他、機関の轟音や、
主砲の咆哮等が飛び込んでくるため、耳が聞こえなく
なってしまいました。

 新人に、受話器を持たせて、ハッチから上半身を
出して、艦橋の伝令を待つように言うことになりました。

 しばらくして、井上氏は、新人と交代して、ハッチから
顔を出すと、しばらく呆然とするような光景が飛び込んで
きました。大和の両舷に水柱が上がり、巨体が隠れていま
した。大和の中央から後部は濛々たる黒煙に包まれていま
した。

 時刻は12時50分で、この時の大和の被害は、魚雷1本、
爆弾2発の直撃を受けていました。

(追記)
 この時、井上氏は先頭を走っている矢矧も目にしていました。
銃火器による反撃が衰えていることから見て、相当の被弾をして
いることは確実だと記しています。しかも、井上氏のところに、
兵士の怒鳴り声も聞こえてきており、騒乱のるつぼになって
いるようでした。

 矢矧は、この戦闘で、魚雷7本、爆弾20発命中という、凄まじい
被弾を受けています。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 前田艦長の名操艦 [駆逐艦磯風]

 1945年4月7日12時40分、磯風の
銃火器が、一斉に火を噴きました。これにより、
敵機を火達磨にしていきました。依然として、
雲が立ち込めており、視界が悪い状態でした。

 敵攻撃機は、大和と矢矧に襲いかかっていましたが、
そのうち駆逐艦の方にも、襲いかかってきました。
磯風に襲いかかってきた攻撃は、前田艦長の操艦
で鮮やかにかわしていました。

 前田艦長の名操艦を、艦橋で見ていた航海士の
証言がありますので紹介します。

 前田艦長は、攻撃機が、爆撃機か雷撃機かを見極め、
爆撃機の時は、爆弾が機体を離れた瞬間転舵し、横腹を
見せていました。

 雷撃機は逆に、魚雷投下まで、腹を向けておき、投下後、
雷跡と平行になるように艦首か艦尾を向けていました。

 爆弾が投下された時は、艦の転舵が効かず、まるで
動いていないように錯覚するので、羅針儀にしがみ
ついて必死に回そうとしたことがありました。艦長が
沈着冷静でなければ、この槍ふすまは、抜けられ
ない。と記しています。

 この戦闘で舵を握っていた操舵手も、艦長と息のあった
ところを見せ、落ち着いていました。だた、艦橋からがなり
立てられると、舵輪を急激に回すことをしていました。
これは、舵故障の原因になる行為で、戦闘中だと
致命傷になる行為でした。

(追記)
 アメリカ軍は、対空砲をかわすために、色々と工夫を
してやり過ごしています。

 その一つが、急降下音だけ響かせて、途中で上昇する
ということをして、機銃員の目と耳を引きつけておき、
別の方向から急降下爆撃するといった方法でした。

 気付いた時は、爆弾を落とした後であり、背を向けて飛び
去る飛行機を撃ち落とすことは、難事でしたので、絶大な
効果があったといえます。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 対空戦闘、配置につけ [駆逐艦磯風]

 井上氏は、後輩に対して、「死ぬ時は一緒だ、どんな
事態が起きても、絶対に自分の持ち場を離れてはいけ
ない」という注意を与えていました。

 井上氏は、この時は、決戦突入を間近に控えて、諦めに
似た落ち着いた気分となっていました。

 井上氏の後輩は、年齢は井上氏より上でしたが、磯風の
釜の飯は、井上氏の方が多く食っているという意識が
あったので、注意することに躊躇はなかったといえます。

 1945年4月7日午前11時7分、大和の電探が敵の
大編隊を探知し、直ちに各艦に知らされました。12時
15分に、「対空戦闘、配置につけ」の命令が下りました。

 この時、磯風の電探も編隊を探知しましましたが、視界が
開けておらず、発砲することはできませんでした。

 間もなく、雲の間から、零戦を凌駕するグラマンや、艦爆の
ヘルダイバー、艦攻のアベンジャーなど100機以上が押し
寄せてきました。井上氏は、悪寒に似た戦慄を感じて
いました。

 この時、脱落した朝霜から「我れ敵機と交戦中」という悲痛な
電信がありました。そして、これが、朝霜の最後の交信となり
ました。

(追記)
 この特攻では、後顧の憂いをなくすなという言葉が流れて
いましたが、井上氏からすれば、自分が死んだら故郷に残さ
れた年老いた両親や、幼い兄弟しかいない家では、憂いは
残るはずだとしています。

 井上氏のような特年兵の場合、旧制中学の学歴を与えると
言われて入学していますが、訓練を早めて死地に追いやり
卒業証書は受け取っていませんでした。退艦した予備学生と、
学歴詐称され、特攻を命じられた特年兵の扱いの差が、いや
でも目につきます。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 最後の後部舵取機室での勤務 [駆逐艦磯風]

 1945年4月7日午前8時40分に、艦隊上空を
味方の飛行機が10機ほど飛来してきました。直衛
してくれるのかと思っていましたが、すぐに雲の
影に隠れました。

 この時味方と思っていたのは、実は、敵の航空機
でした。この特攻の時も、スリガオ海峡と同様、
直衛機は一機も飛来してきませんでした。


 前田艦中は、気象長に、「今日一日、この雲量か」と
尋ねていました。これに対し、「明日になれば、いくらか」
と返答しています。この雲の量では、対空戦闘は不利でした。

 井上氏は、連合艦隊の掉尾を飾る戦闘に対して、もっと
存分に活躍できる天候まで待てなかったのかという思いが、
井上氏にはありました。

 井上氏は、この特攻では、後部舵取機室に新人と二人で、
1時間交代で務めていました。新人は、今日が初めての
実戦で、顔をこわばらせて、諸器の点検をしていました。

 井上氏は、この様子を見て、自分の初陣であるマリアナ沖
海戦を思い出していました。あの頃は、まだ巻き返せるという
雰囲気がありましたが、今日は、死の船出となっていました。

 先輩として見苦しいところは見せられないと気持ちを引き
締めていました。

(追記)
 特攻機搭乗の一指揮官は、敵空母を眼下に発見しながら、
通信機故障(特攻には何の関係もなし)で引き返し、
付近の海岸に着陸したとあります。

 このことが、終戦後本人の口から、語られ新聞に掲載
されたことがあります。井上氏は、事実なら腹立たしい
としています。

 井上氏の怒りはもっともですが、この当時は、参謀の
虚構の下達という認識があり、下の兵士も笛吹けど
踊らずという状態でした。特攻を、理由をつけて
やめて逃走しようと考えるのは、軍としては問題
でも、自然な発想といえます。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 朝霜脱落 [駆逐艦磯風]

 1945年4月6日の午後7時50分、西水道を抜け、
速力を22ノットに増速しました。日向灘の敵潜水艦を
避けるように偽航路をとり、第二警戒航行序列として、
之の字運動を開始しました。

 4月7日午前2時に大隅海峡に入り、佐多岬を通過し、
針路を280度にとって東シナ海を目指しました。
この時から、対潜水艦隊形を解いて、対空戦闘に
備えました。

 午前6時57分、朝霜が機関故障で、12ノットしか出せず、
艦隊から脱落しました。護衛することもできず、最寄りの港に
たどりつくように祈るしかありませんでした。

 夜が明けると、暗雲が立ち込め、視界不良でした。雨こそ
降らないものの、どんよりとした雲が、艦隊を覆っていました。
敵機を早期発見して、攻撃するという状況からすれば、不利
という天候でした。

 午前7時頃、陸軍の船とすれ違い、検討を祈るという激励を
受けました。陸軍でさえ、船に乗って頑張っているのに、
海軍が頑張らねばという思いが出てきました。

(上記の陸軍の船は、以前紹介した潜航輸送艇のまるゆ
ではありません。まるゆが登舷礼で大和を迎えたという
話は、まだ、海軍の資料で見かけたことはありません)。

(追記)
 大和の最大射程距離は、42kmなので、水平線上に
現れた敵機に対し、三式弾を撃ち込むということができ
ました。三式弾は、6000余りの弾丸が詰められており、
敵機の近くで炸裂すれば、大きな効果が発揮でいました。

 しかし、上記の天候では、早期発見ができないという
ことで、実力を発揮できないと思われます。天候は、時の
運なのでどうにもならないものですが、このようなことが
運不運を分けるので、馬鹿にできないといえます。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 敵潜水艦を警戒しながらの航海 [駆逐艦磯風]

 1945年4月6日の午後、駆逐艦司令と前田艦長が
悲壮感を漂わせて内火艇の人になっていました。なお、
今回の特攻では、磯風が司令駆逐艦となっており、
駆逐艦司令は、磯風に乗艦していました。

 大和に各艦の艦長と司令が集まり、会議を持ちました。
磯風に帰還した司令と前田艦長は、会議の内容を一言も
話しませんでした。吐露したいことは山ほどあるものの、
いまさらというあきらめの表情でした。

 この日の午後3時20分、艦隊は静かに動き出しました。
磯風の甲板上には、非番の乗員がおり、宇宙を凝視して
いました。乗員達は、感情を抑える追い必死になって
いました。

 艦隊は、第二水雷戦隊旗艦の矢矧が先頭に立ち、以下
冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞と一列に
なり、殿を大和がつとめました。

 午後6時に西水道に入り、航海保安配置につき、潜水艦
への警戒をしていました。豊後水道に2隻潜伏している
という報告があり、日向灘に浮上中の潜水艦を発見という
報告を受けていましたが、見逃しています。

 敵潜水艦は、おとりを使っておびき寄せるという手段を使って
おり、この誘いに乗ると、護衛の任務に齟齬をきたしました。

(追記)
 豊後水道で、駆逐艦花月、榧(かや)、槇、が帽振れの
見送りをしてくれました。この3隻は、前日まで、第一遊撃
部隊に所属し、特攻隊と行動を共にしていました。井上氏は
なぜ特攻参加できないのかという疑問が出ていました。

 花月は、秋月型12番艦で、艦これには現時点では登録
されていません。特攻隊の冬月や涼月と同型艦なので、
参加自体は可能だったと思われますが、残留しています。

 榧、槇は、戦時の量産タイプということで、速力が
最大27ノットしかでず、特攻任務には不向きだった
という理由で外されたと思われます。この3隻は、
終戦まで生き残っています。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 最後の出撃 [駆逐艦磯風]

 1945年3月28日夕刻に、呉を抜錨した艦隊は、
広島湾の、兜島南方に仮泊しました。明けて29日に、
広島湾を出撃し、見田尻沖に向かいました。

 敵機を警戒して航行していましたが、艦隊上空に
現れた紫電を、大和が敵機と誤り、撃墜してしまい
ました。航空司令から厳重な抗議をうけることに
なると同時に、大和の主砲の威力をまざまざと
見せつけられました。

 季節は春といえますが日は短く、大和は、春の霞の
中に浮かびあがっていました。井上氏は、かつて、
リンガ泊地で、威容を誇った象徴が、夢幻を見る
ようで、寂然となりました。

 4月6日早朝、連合艦隊司令長官より、「皇国の興廃、
まさにこの一挙に在り、ここに海上特攻隊を編成、壮烈
無比の突入作戦を命じたるは、・・・」という電文が届き、
前田艦長が伝声管を通じて、電文を読み上げました。

 最初の一文は、東郷元帥がバルチック艦隊を迎撃した時に
号令された文面に似ており、井上氏は身が引き締まると
思いましたが、はたと、東郷元帥は、旗艦の三笠に座乗し、
自ら指揮をとっているという事実を思い出し、悲憤が
頭をかすめました。

 どのような立派な文章でも、発信している人の気構えで、
受け手は全く違う印象を持つということを示していました。

(追記)
 今回の出撃は、特攻ということで、燃料も、600tと制限
されるという状態でした。しかも、内地は補給するための
燃料も不足しているので、今回の特攻からあふれた駆逐艦
から補給を受けるということをしていました。

 さらに、敵機のつけ入る隙もなくなるほど、機銃を増設した
ので、その分の弾薬も譲り受けていました。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 特攻出撃前夜 [駆逐艦磯風]

 井上氏の言葉に反応した同期の特年兵は、「国は、
残った祖父母をどのように面倒みてくれるのか気に
なる」と返答しています。同期特年兵の家族は、
兄が戦死しており、残っているのは、老いた母と、
姉妹だけだったようでした。

 別の兵が、特攻の選別をするなら、家庭環境を考慮
すべきだと言い放っていました。これに、井上氏が、
「人間には、死を選ぶ権利が存在する。昔の直参とも
いう上層部が門閥を大切にするなら、水飲み百姓の
せがれが、家や命を大事にする。上も下も思いは
同じだ」ど吐露しました。

 この言葉は、雰囲気をおし黙らせるものにしてしまった
ようで、別の兵が、「国のためというより、自分の軍人と
しての本分と義務のために逝くのだ」と述べて、場を取り
持っていました。

 井上氏は、この時、「大和をはじめとした歴戦の艦を率いて、
なんらかの和平の模索はできなかったのでしょうか」と問いかけ
ていますが、虚しさだけが残りました。

 無礼講が終わり、寝床につきました。とはいえ、毛布もすべて
揚陸してしまったので、着のみ着のままのごろ寝となりました。
床に着くと、絶望の淵に立たされることになり、生への執着は
断ちがたくなります。

 普段は剛毅に見える井上氏の先輩も、この時は、寝付け
ないのか、ため息とともに寝返りをうっていました。

(追記)
 駆逐艦は、軍艦としては小型ということもあるので、家庭的で、
運命共同体的と言われていました。しかし、駆逐艦といえども
特権意識は露骨に存在しており、下士官と士官の間には、
命令以外で言葉をかけることはなかったといえます。

 井上氏は、この状況を白人と黄色人種のような関係と評して
おり、よくこれであれだけの激戦を凌げたと記しています。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

駆逐艦磯風 最後の宴 [駆逐艦磯風]

 井上氏は、白いたすきを持っていた時、ふと、幼稚で
たわいないと感慨を持ちました。この鉢巻を血で汚さ
ないで、締めることをやめ、特攻の記念として取って
おけば、靖子さんの元に帰れるような気がしました。
そして、遺書は書かないことに決めたようでした。

 酒保開けの号令がかかり、壮行の宴となりました。
特攻艦隊の各艦は、世界の料理を並べたほどの豪華さ
があったそうでした。しかし、磯風は、艦長がケチ
だったためか、それほど豪華な料理が出たわけでは
ないようでした。

 磯風は、明日のない艦なので、全部使い果たして、豪華
なものでも食べさせてやれば、士気の高揚に役立つのに
という感想を述べています。井上氏は、先輩から御神酒を
頂戴し、五臓六腑にしみわたらせていました。

 井上氏は、飲み水のまずさから、ビールのうまさを覚えま
したが、湯飲み一杯分のお酒をもらうのは、今夜がはじめて
だったようで、うまいと感じていました。根っからの酒好き
だったようです。

 井上氏は、酒をのみながら、「あさってはどうなっているの
だろう」と、誰ともなく訊ねていました。この井上氏の言葉に
反応したのは、同期の機銃に座る特年兵でした。

(追記)
 磯風は、この特攻で被弾して傾斜した時、傾斜復元の
ために、物資を移動させて対応しています。この時、
パイナップルの缶詰が大量にあることを主計兵は
確認していました。上記の宴の時は、物資はあった
ことを意味します。

 艦長は、このことを想定し、物資を残していたことも
考えられますが、井上氏らのような一般兵からしてみれば、
最後くらいふるまえばよいだろうという感想は当然出て
くるといえます。


紹介書籍:駆逐艦磯風と二人の特年兵

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