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戦艦比叡 処分に対する思惑の違い [戦艦比叡]

 阿部司令官の命令に対し、西田艦長は驚き、
「再度浸水を食い止める処置を行うので、猶予を
こう」という要請をしています。阿部司令官は、
この要請を受け、移乗手続きを止めました。

 処分の命令から中止したことまでの状況を、連合
艦隊司令部に伝えると、「比叡は処分するな」という
命令が来ました。司令部は、夜まで持ちこたえれば、
救難することは可能だと考えていました。

 最近は、艦が損傷すると、すぐに処分しようという
判断がされるが、早すぎるのではないかと考えて
いました。

 損傷艦を処分して、戦場から離脱したいという思いで、
戦艦沈没第一号を出されてはたまらないという思い
でした。

 しかしながら、連合艦隊司令部内でも意見が分かれて
いました。山本長官は、「処分するなと言ったが、比叡の
写真を宣伝に利用されると心苦しい。早速処分しよう。」と
いう意見を述べていました。宇垣参謀長は、賛成しました。

 これに対し、黒島先任参謀は、「比叡が生きている
うちは、輸送船に対する空襲が比叡に集中する。
比叡は沈むことは避けられないので、沈むまでの間は、
有効に戦局に寄与させるべきで、処分は待ってもらい
たい」という意見でした。

 山本長官、宇垣参謀長、黒島先任参謀の3人で話し
合いを持ち、黒島先任参謀の意見に理があると考え、
処分は中止としました。宇垣参謀長は、しぶしぶ賛成
したものの、内心は不満でした。

(追記)
 黒島先任参謀は、真珠湾攻撃の計画を最終的に
作成した人物で、発想が独創的でユニークでした。
山本長官は、この点を高く評価していました。

 山本長官自身が、奇襲作戦を好む博打打ちの
ような人物でしたので、気が合ったということです。
日本海軍にとっては、不幸だったといえます。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 阿部司令官の判断 [戦艦比叡]

 比叡は、通信機能が失われたことで、手旗信号で
意思を伝えるという方法をとっていましたが、短い
内容ならともかく、面倒な内容はお手上げでした。

 トラックの連合艦隊司令部からも、駆逐艦を比叡の
艦尾に横付けして、タグボートのようにして、舵の
代わりにせよといった命令まできました。

 これは、実行できませんでしたが、戦艦を失うわけ
にはいかないという想いから、全軍が成り行きを
見守っていたことが伝わります。

 比叡の周りには、雪風、照月、時雨、白露、夕暮の
5隻の駆逐艦が、集まっていました。駆逐艦乗員は、
現状、敵飛行場の目と鼻の先であり、ぐずぐずして
いると、やられてしまうという心配をしていました。

 雪風にいた阿部司令官は、当初、霧島を呼び寄せて、
比叡をショートランドに曳航しようと考えていました。霧島は、
反転し、こちらに向かっていましたが、潜水艦の攻撃を受け、
不発の魚雷が命中しました。これを受けて、霧島での曳航は
中止となりました。

 阿部指令官は、手持ちの兵力でやりくりするしかなく、
曳航するか、放置するか、自沈させるかを、選択するしか
ありませんでした。霧島が来ない以上、駆逐艦で曳航
することは不可能でした。

 阿部司令官は、傾いている比叡の状況と、これから
受けるであろう被害、そして、復旧の見通し、乗員の
命などを天秤にかけていました。そして、「比叡を
処分する。生存者を移乗せよ。」という命令を下して
います。

 このような状況では、論理的な判断だといえます。

(追記)
 阿部司令官の処分の命令に対し、連合艦隊司令部、
西田艦長それぞれ、思いの食い違いがあり、すんなり
実行できませんでした。

 しかも、判断する上層部が、比叡の損害を正確に
把握していなかったということに、比叡の悲劇があり
ます。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 機関が全滅 [戦艦比叡]

 現状、阿部司令官は、砲撃戦で負傷し、雪風に移乗
していました。西田艦長は、三番砲塔の上に立って、
防空戦の指揮をとっていました。

 敵機は、後方から襲撃していたので、三番砲塔は
最前線であり、最も危険な場所でした。西田艦長は、
死ぬ気だったようで、死に場所を求めて、三番砲塔の
上にいたようでした。

 そのような時に魚雷を受け、船体が、右に15度傾き
ました。後部に穴が開いていたことも、影響したようで
した。

 西田艦長は、比叡は艦尾から沈みつつあるという感覚を
持っていました。このような時に、「機関が全滅しました」
という報告がきました。この報告に、西田艦長は、顔面が
蒼白になりました。比叡は助からないと判断しました。

 このような折、阿部司令官から、「比叡を処分する。
生存者を移乗せよ。」という命令が来ました。この時、
比叡は、通信系統が壊れ、艦としての能力は、
個別に発揮されているような状態でした。

 そのため、全体を把握することは困難でした。しかも、
救難指揮官でもある阿部指揮官は、怪我で雪風に移乗
していたため、比叡の状況を把握できていませんでした。

 結果を見ると、阿部司令官の命令は、行き違いから
生じた不幸な命令となってしまいました。

(追記)
 比叡の防御は、当初8kmの距離からの低い砲弾に
対する防御を前提に、設計されていました。これに、
垂直から落下してくる砲弾と、海面下の魚雷に対する
対策のために、近代改装を行っていました。

 しかし、魚雷対策は、バジルをつけただけでした。
西田艦長は、この比叡の構造を知っていたので、
魚雷を食った時、当たり所が悪ければ、機関が
全滅するということはあり得ると考えたのでした。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 魚雷命中 [戦艦比叡]

 13日金曜日の陽が昇りました。比叡の近くで、
燃えている駆逐艦夕立と、今にも沈みそうな、
アメリカの巡洋艦ポートランドとアトランタが
いました。

 ところが、死んでいると思っていたポートランドが、
燃え続ける夕立に、砲撃を開始しました。夕立の
乗員は、昨夜のうちに、五月雨に救助されており、
この時は、無人でした。

 しかし、味方の艦が砲撃されるのを見て、比叡の
乗員は怒りが湧いてきました。比叡は、この時、
徹甲弾を装填しており、36cm砲に砲撃を
浴びせました。

 この音を聞きつけたか、敵機が襲撃してきました。
比叡は、舵の応急修理を行っていましたが、この
襲撃により、緊急回避することになり、その際、
応急舵が流されるという事態になりました。

 襲撃はかわしたものの、舵をつける作業を
最初からやり直すことになりました。この後も
襲撃を受けるたびに同じことが繰り返され、
乗員も業を煮やし始めました。

 そのような折、雷撃機が飛来し、魚雷を放って
きました。そのうち1本が、バジルに命中して大穴
があき、そこから大量の海水が流れ込んできました。

 この攻撃は、比叡にとって無視できない損害と
なりました。

(追記)
 比叡は、元々金剛型二番艦として、27000tの排水量
でしたが、近代改装により、37000tまで重くなっていま
した。そのため喫水が下がってしまうという問題が発生
しました。

 この問題を解決するために、バジル(空気の入った
膨らみ)を持たせることで、浮力を上げていました。
バジルは、魚雷に対するショックをやわらげる
効果も持っていました。

 そのため、比叡は、バジルに穴があくと、浮力が減って
しまうという構造的な問題を持っていました。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 操舵機関員の奮闘 [戦艦比叡]

 戦闘が終わった頃、比叡の舵はいよいよ動かなく
なりました。一発の20cm砲が開けた穴のせいで、
舵が左転舵に固定されたまま、自由に航海でき
なくなりました。

 この時、操舵していた機関兵曹は、唯一の出口が
海水で満たされたため閉じ込められ、電話も通じない中、
舵を中央に戻す決意をしました。

 舵が中央にあれば、左右の機関の出力を調整して
いけば、左右に方向を変えることができました。

 比叡の舵は、十帖敷きほどの大きさがあり、これを
人力で動かすのは、大変な力と時間がかかりました。
これを、6人で行っていました。

 比叡は、霧島や長良から孤立し、サボ島を目指して
いた時、大きな弧を描いて左周りしていたものが、直進
し始めていました。人力の舵が効き始めていたことを
示しています。

 一方で、舵を動かしている部屋にも、海水が入って
きました。当初は、膝ぐらいでしたが、現在、肩あたり
まで浸水してきました。このままいれば、全員溺死
することになります。

 溺死しても舵が固定されるのであれば、本望と思って
いましたが、手を離せば、舵は流れてしまい、中央に固定
されることは、ありませんでした。溺死しても、脱出しても、
結果は同じなので、脱出するという決断を下しました。

(追記)
 上記の機関兵曹は、西田艦長のようなエリートでは
なく、比叡に5年も乗りこんでいるたたき上げのベテラン
でした。

 普段は目立たない、冴えない、頭の働きがにぶい
クズだと見られていた(ひどい言われようです)人物
だったようです。

 この時は、適切な判断をしているといえます。平時の
マニュアルに沿ったような動きより、危機の時の臨機応変
な動きの方が得意な人物だったようです。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 損害が広がる [戦艦比叡]

 阿部中将が、味方の艦はどこへ言ったのかと考えて
いた頃、第十戦隊と第四水雷戦隊は、雷撃を行うため、
左に旋回していました。比叡もあわせようと思っていた
ようですが、舵が不調のため、できませんでした。

 比叡は、アトランタを砲撃した後、敵の重巡洋艦の
20cm砲を後部に受けていました。この時、2mほど
の穴があきました。損傷としては軽微ですが、場所が
悪かったと言えます。

 比叡の大きさだと、速力を上げて波を上げると、
中央部で波が下がり、後部で再び波が高くなる
という、うねりを生じます。そのため、後部の穴から
浸水し、舵などを動かす電気系統が故障したようでした。

 しかし、この時点では、戦闘は可能であり、敵は、
最も目立っている比叡に対して攻撃を集中させて
いたので、構わず応戦していました。比叡が舵の
故障で立ち往生するのは、この20分後でした。

 比叡にとっては、攻撃が集中したということですので、
大変な目にあっていますが、その代わり、第十戦隊や
第四水雷戦隊は、敵の攻撃をあまり受けずに済み、
撃沈したのは、雷撃戦のあおりを受けた暁だけでした。

 一方アメリカ軍は、次々に命中弾をくらい、撃沈するか
退避することになりました。旗艦サンフランシスコも、比叡
に攻撃を仕掛けたところ、比叡の副砲を受け、カラハン
少将が戦死しました。

 アメリカ軍は、司令官、副司令官共に、比叡の攻撃で
戦死したことになります。

(追記)
 この、第三次ソロモン海戦は、日本軍が砲撃を開始して、
9分間が混戦状態となり、35分後には終わっていました。

 しかも、戦場は、直径に30kmほどで、この中に日本軍
14隻とアメリカ軍13隻が、入り乱れて戦ったということに
なります。

 さらに混乱に拍車をかけたのが、駆逐艦夕立の行動でした。
敵軍を突っ切り、後方にいたヘレナや後方護衛の駆逐艦に
攻撃を仕掛けて、撃破するという活躍をしています。

 敵艦が、前方にいた比叡に集中していて、後方に回った
夕立に気付かなかったという運もあったものの、夕立艦長の
吉川中佐は豪胆だったといえます。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 被弾 [戦艦比叡]

 混乱していたのは、カラハン少将だけでなく、
阿部中将も一緒でした。三式弾を徹甲弾に変更
せよという命令はできたものの、その後は手の
打ちようもない修羅場となっていました。

 さっきまで暗闇だったものが、発砲や閃光で
明るくなっていました。比叡の周りにいたはずの
護衛の駆逐艦は見当たらず、本来護衛のいる
位置に敵の駆逐艦が飛びこんでいました。

 敵駆逐艦から12cm砲や機銃が、絶え間なく
撃ち込まれました。自身の36cm砲を受けても
耐えられるようにできている比叡の装甲が破ら
れることはないものの、艦橋に命中している音を
聞くのは不気味でした。

 阿部中将は、味方の第十戦隊や第四水雷戦隊が
どこに行ったのか分からず、信じられないという思い
でした。

 一方で、比叡は、善戦していました。初弾をアトランタに
命中させた後、再度アトランタを砲撃し、大破させています。

 そして、第三斉射をしようという直前、敵の攻撃で
通信配線がやられたのか、指揮系統がつながらなく
なりました。この後は、各砲塔が、個別に攻撃を行う
独立射撃しかできなくなりました。

 比叡も、厚い装甲で覆われているところは、駆逐艦の
装備なら問題なくはじき返しますが、そうでないところは、
蜂の巣のようになっていました。

(追記)
 この海戦時、敵味方の距離は、最大でも4.5km最小では
2.3kmと、ほぼゼロ距離射撃の状態でした。砲塔も水平方向
で撃っているため、砲弾は、通信系統が走っている甲板付近に
集中しました。

 装甲に覆われた部分は全く問題ないのに、装甲がない個所は
死者が多数出ており、前檣楼は弾も飛んでこないので、高見の
見物を決めることができたという、同じ艦内でありながら、ちぐはぐ
な状況が生じました。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 混乱の極み [戦艦比叡]

 アトランタの艦橋が一撃で吹き飛んだのを見て、
すぐ後ろのサンフランシスコから見ていたカラハン
少将は、飛びあがりました。

 カラハン少将は、射撃開始の命令をする前に、
日本軍の先制攻撃でアトランタが吹き飛んで
しまったので、あわてて砲撃開始を命じました。

 そして、この時、カラハン少将は奇数番の艦は
右に、偶数番号の艦は左に砲撃せよという、
一世紀以上前の接近戦を演じていた時の
海戦のような号令をかけています。

 カラハン少将の艦隊は、日本軍の中に飛び込んで
おり、左右どちらを向いても日本軍がいるという状態
なので、この命令を出しています。しかし、この時、
日米両軍とも混乱の極みに達していました。

 先頭を走っていたカッシンは、突撃を開始した夕立と
ぶつかりそうになり、慌てて舵を切ったところ、十戦隊
の懐に飛び込んでしまいました。

 二番艦ラフェイも、カッシンにぶつからないように
転舵すると、比叡の目の前に出てしまいました。
カッシンは十戦隊の砲撃で、ラフェイは比叡の
副砲により撃沈されました。

 しかもこの混乱の中、カラハン少将はサンフラン
シスコが、アトランタを誤射していると勘違いし、
止めるために射撃止めの命令を出しましたが、
これが全艦隊に行ってしまい、射撃をやめた
艦が数隻で出てきました。

(追記)
 第三次ソロモン海戦は、ニミッツ司令長官が、
「その混乱の激しさは、、海戦史上例を見ない
ものであった」と評したほどの混戦でした。

 日米両軍とも、どの艦がどの艦に攻撃をして
どのような戦果をあげたのかさえ分からないほど
でした。

 しかも、砲撃は、味方を撃ったものも多数あり、
戦果が味方の艦だったということもあるような海戦
でした。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 敵艦に向け砲撃 [戦艦比叡]

 敵のミスにより、攻撃を受けずに済んだ夕立は、
午前1時42分に、敵艦隊を発見し、「敵見ゆ」の
緊急信号を比叡に通信しました。この時間帯は、
砲撃を開始する直前であり、どう対応するか迷う
ようなタイミングでした。

 1分後、比叡も敵巡洋艦を発見したので、飛行場
砲撃2分前に、目標を敵艦隊に変えることになり
ました。そして、2分後の1時45分、アメリカ軍は、
射撃用意の命令を下しています。両軍は、1分で
1.5kmずつ互いに近づいていました。

 航空戦が主流となりつつあるこの時期に、両軍の
砲艦が1分刻みで行動するという、考えられない
接近戦になってきました。

 そして、アメリカ軍は、戦艦相手に火力不足を
心配しており、日本軍は、艦艇には効果がない
三式弾を詰めた戦艦で、どう対応するかを心配
していたということになります。

 午後1時51分、比叡が探照灯を点け、アトランタを
浮かび上がらせました。同時に、36cm砲をアトランタ
目掛けて撃ち出しました。

 そして、この砲撃は、アトランタの艦橋に命中し、
スコット少将をはじめとした艦橋にいた全員を爆死
させるという戦果を生み出しました。

 この時、両艦の距離は、日本軍の資料では6kmと
なっていましたが、三式弾で艦橋が吹き飛ぶほどの
威力が出たとなると、もっと近かったと思われます。

(追記)
 吉田氏は、なぜ比叡が、数kmしか離れていない
アトランタに向けて探照灯を点けたのかという疑問を
出しています。

 阿部中将軍が、味方撃ちを警戒した、比叡がいる位置を
味方に知らせるためなどの理由を出していますが、当然、
敵艦からも認識されることになったとしています。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

戦艦比叡 アメリカ軍の混乱 [戦艦比叡]

 11月13日午前1時27分(比叡が砲撃準備の
命令をする3分前)、にカラハン少将は、T字戦法を
取るなら今だ考え、右へ転針するように命じました。
縦一列の陣形が、先頭から鎌首を持ち上げることに
なりました。

 午前1時41分、先頭を走っていた駆逐艦カッシンは、
近づいてくる2隻の艦船(夕立と春雨)を発見し、艦内
電話で敵発見を告げ、取舵一杯(左転回)と右魚雷戦の
命令を出しています。

 しかしながら、カラハン少将は、今回の戦闘が、T字
戦法であることを伝えていないため、カッシンの艦長は、
魚雷発射をしていいのか分からず、カラハン少将に
問い合わせる必要がありました。

 一方で、カッシンが左転回したため、二番目以降の
駆逐艦は、衝突を避けるため、各艦バラバラに転舵し、
団子状になってしまいました。そこに来たアトランタは、
駆逐艦を避けるため、こちらは大きく舵を切りました。

 このアトランタの動きは、カラハン少将が想定している
T字の動きとは全く違うため、アトランタに乗っている
スコット少将を叱りつけていました。カラハン少将と、
スコット少将の確執がここでもでてきました。

 このため、カッシンへの応答が遅れ、魚雷発射の許可を
得た時には、敵艦は、射程の外に行っていました。
アメリカ軍は先制攻撃の機会を、内部の分裂の
ために逃したことになりました。

(追記)
 上記のアメリカ軍の行動を見ると、日本軍の進撃を
キャッチしていながら、行動は出遅れていることが
分かります。

 アメリカ軍が間に合ったのは、日本軍がスコールに
より反転し40分ロスしたためでした。

 金剛と榛名が飛行場を砲撃した時ほど好条件では
なかったにせよ、比叡や霧島も、反転が適切であり、
第四水雷戦隊が最初の定位置にいたら、十分対応
できたことになります。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯

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